『私について數を數へて下さい‥‥‥』と、滴壜を手にした助手は、命令するやうな句調でお前の耳元に囁いた。お前は幽かに頷いた。
『一‥‥‥』と、その助手が太い、バスの聲で叫んだ。
『一‥‥‥』と、お前は低い、けれどはつきりした聲で助手の聲を追つた。
『二‥‥‥』と、間を置いてまた助手が云つた。
『二‥‥‥』と、お前はそれに續けた。
水島は傍の置時計を見詰めながら、お前の聲に聽き入つてゐた。
私はもう身動きする事も許されないやうな氣持で窓際に佇んで、助手の間に見えるお前の顏に喰ひ込むやうな視線を投げてゐた。そして、抑へようとすればする程ぴくぴく顫へ出してくる脣を噛みながら、お前の、宛で穴の底から反響してくるとでも云ひたい、陰氣な餘韻を殘して行く数へ聲に引き寄せられて、二、三、四、五‥‥‥と口の中で追ひ續けてゐたのだつた。と、喘いでゐたお前の息は丁度臨終の迫つた病人のやうに和いで來、鎭まつて行き、段々に間遠になつて、時々深い吐息がお前の白い咽喉首を脹らました。同時に數へる聲も次第に力を失つて行き、明瞭さを薄くして、助手の力強いバスの聲の響が高まつて行くのとは反對に、數が十、十一と重なるにつれて弱くかまれて行くのだつた。
『ふつ‥‥‥』と、私は我知らず吐息づいて、その吐息を感じてひよいと振り向いた水島と視線をかち合はせた。水島の顏はまるで彫刻のやうに嚴かに、冷かに見えた。眼には私の胸に最高音のリズムを打つて蘇つて來た不安を、恐怖を見通すやうな鋭さがあつた。私は自分を胡魔化すやうに視線を反らした。と、その視線がまた左手を執つてゐた助手の背後にゐる看護婦長の、盛りを過ぎた女の、とろんと濁つた眼とぶつかつた。それをあわてて反らすと同時に、『十七‥‥‥』と、助手が叫んだ。
『十七‥‥‥』と、それに習つたお前の聲は、もうその時『ふうち‥‥‥』と呟いたやうに細く、ぼやけてゐた。
と、それに續いた靜けさの中に、遠くの空を流れて行く、何處とも知れない工場の鈍い汽笛が、私の耳を掠めて行つた。そして、それが私の意識をこぼれるやうにすつと外に誘つたかと思うと、同時に助手の聲が『十八‥‥‥』と、高く響いた。意識が小波を打つて輕く途惑つた。が、再びはつきりそれが手術室の中に歸つて、お前の習ふ聲を待ち構へた時、私はそれに代る自分の胸の動悸を聞いた。部屋はしんとなつた。動悸が急に高くなつたやうな氣がした。眼はお前の顏の上にす早く走つた。と、間もなく、お前は『十六‥‥‥』と呟やいた。水島は滴壜とマスクの上に支へた助手と、ひよいと顏を見合せた。
『來たね‥‥‥』と、水島は小聲で云つた。
『十九‥‥‥』と、助手は水島の詞に幽かに頷いて、急に力を込めた聲で數を讀んだ。
『十九‥‥‥』と、長い間を置いて、お前はやつと『九』が聞えるばかりのか細い聲で續けて、深い息を吸つた。
『脈は‥‥‥』と、また水島はきらりと眼を光らせて囁いた。
『九十三‥‥‥』と、お前の右手を支へてゐた助手が答へた。
私は窓際から我知らず一歩程體を前に進めて、その助手の傍に立つて、ぢつとお前の體を覗き込んだ。と、お前の息は殆ど絶えてしまつたかと思はれるやうに幽かに間遠になり、マスクの周圍に見えてゐる頬や額にはほのかな血の赤みが差してゐた。そして、病室にゐた間の身もがきも、無意識な手足の動きもすつかり止んで、まるで安らかな眠りが來たやうに、冷かな死がすべてを支配してしまつたやうに、お前は手術臺の上に横はつてゐたのだつた。
『昏睡‥‥‥』と、水島を顧みた、私の聲は顫へてゐた。
『ふむ、丁度それに這入りかけた處だ‥‥‥』と、水島は靜に頷いた。
そのお前を、もう病氣の苦痛も生死の不安も、忘れたやうな、いや人間すべての意識から斷たれてしまつたやうなお前をぢつと見詰めてゐると、私の體ぢうの筋肉は痛い程張り、神經は冴え、感情は鋭くなり、髮の毛一本に突つかれても劇しい衝撃を受けさうな心持がした。そして、手術に對する恐怖やお前の生死に對する懸念を離れて、ただ次から次へと迫つてくる瞬間が何とも云へない強い力で私の心を脅かすのであつた。
『二十三‥‥‥』
『二十三‥‥‥』
『二十四‥‥‥』と、助手が勵ますやうに聲を高めた。
『――四‥‥‥』と、語尾の漸く聞き取れるばかりのお前の聲はその時もうけだるく、力を失つたものだつた。
『二十五‥‥‥』と、續いて助手の聲は手術室の靜かな空氣を高く貫いた。
と、其處に何秒間かの沈默が來た。お前はもう答へなかつた。ただ幽かな息の音がマスクの下に感じられた。そして、更に聲高な助手の『二十六、二十七‥‥‥』にもお前の聽覺は何等の反響を感じないやうに見えた。深い昏睡がお前の上に來たのだ。水島は靜かにお前に近づいて瞳孔を調べた。その眼は助手の顏の上に、續いて銀色のメスやピンセツトの上にす早く動いて行つた。
瞬間、しんとした室内の七人の人影は臥像のやうなお前を取り卷いて、ぢつと佇んだ。嵐の前のやうな靜寂がふと其處に來たのだつた。が、助手は再び滴壜を傾けてマスクの上にコロロホルムを滴らしながら、脣をお前の耳元に近づけて『二十八‥‥‥』と叫んだ。然し、其處にはお前の間遠な息が靜に聞えてゐるばかりだつた。
何秒間かが息を抑へるやうな靜けさの内に流れて行つた。
と、次の刹那に、お前の顏を覆つたマスクが忽にふはふはと動き出したのに驚く隙もなかつた。
『庭の千草も‥‥‥』と、お前は突然唄ひ出したのだつた。その聲は今までの數へ聲をすつかり裏切つてしまふ程高く、澄んでゐた。そして、その歌はお前が家にゐる時好んで口ずさむあの歌だつた。私は我知らずぎよつとして、コンクリイトの床に堅く足を踏ひ著けて身構へた。途端に水島は『どうだ‥‥‥』と云つたやうな表情を浮べて、私を見返つたのだつた。
が、お前の歌聲は直ぐに途切れた。途切れた隙に私は思はず息を呑んだ。と、脣の痙攣するやうな動きにつれて、マスクが落ちかかつた。助手はそれをあわてて支へた。その間もなく、急に或る感動に迫られたやうな、而も今までの私が決して聞かなかつたやうな、はつきりした鋭い聲でお前は何かを喋舌り始めた。無論、お前の體は死人のやうに横はつてゐて、口だけが動いてゐるのだ。が、その詞は暫く何の意味をもなしてゐなかつた。
『いいえ、いいえ‥‥‥あの晩‥‥‥苦しい‥‥‥考へましたわ‥‥‥貞雄さん‥‥‥お詞は‥‥‥お詞は‥‥‥愛する‥‥‥けど、けど‥‥‥無理‥‥‥辛い‥‥‥どんなに苦しんだか‥‥‥』と、實際その途切れ/\の詞がお前の脣から洩れてゐるのか、それともお前の脣の中に何かが隱れてゐてそれをお前に云はせてゐるのか、とに角、それがまるで電氣を浴せ掛けられてゐるやうな氣持でぢつと聞き澄ましてゐる私の耳に、疑ひもなく、はつきり響いて來たのだ。私の聽覺は刺刀のやうに冴えた。そして、すべての意識が、一時に其處へ固まつてしまつたやうに緊張してしまつた。
『三十‥‥‥』と、それでも助手はお前の詞のすべてを氣にも留めないやうにかう數へて、抑へたマスクの上に滴壜を傾けたのだつた。
『‥‥‥そんなにお責めになつて‥‥‥ああ‥‥‥駄目、とても駄目‥‥‥あなた‥‥‥許して‥‥‥苦しい‥‥‥』と、お前の不思議な程の滑かさを持つて來た聲は、マスクの下でかう續いて行くのだ。私はわなわな顫へ出した。貞雄君のあの顏を何云ふとなく、鋭く思ひ浮べながら‥‥‥‥。
『脈は‥‥‥』と、水島はまた云つた。
『八十九‥‥‥』と、助手がそれに答へた。
『瞳孔‥は‥‥』
『全開‥‥‥』と、助手が喋舌り續けてゐるお前の眼を開いてみながら、かう水島に答へた。
と、水島は全くお前の聲を氣にも留めない冷靜さで、しつかりと助手に頷き返した。脈を取つてゐた一人の助手と看護婦は直ぐに手術臺の傍の硝子臺に近づいて、ピンセツトやガアゼを取つた。同時に水島は息抑へのマスクを口元に覆つて、す早く手術臺に近く立つた。お前の後半身は助手に依つて生々しく露出された。
『ほんとに許して‥‥‥ああ‥‥‥惡かつたわ‥‥‥だつてあの時あなたが‥‥‥あの道で‥‥‥手を‥‥‥熱い‥‥‥』と、喋舌り續けてゐるお前をぢつと見返りながら、水島は暫く佇んでゐた。と、その眼には暗い影がちらりと差して、それをひよいと私の顏に振り向けた。
『ひどい囈言だ‥‥‥』と、私は水島の視線を避けながら、湧き返るやうな胸の混亂を抑へてかう呟いた。
『何、直ぐ止む‥‥‥』と、かう答へた時、水島の眼に差してゐた暗い影は消えた。
が、囈言と云つた私は、すべてを否定して濟まさうとしてゐた私は、其處まで來た時もうお前の昏睡の脣から洩れてくるその斷續した詞の意味を囈言と思ふ事も、否定し濟ます事も出來なかつた。頭にはかあつと血が上つて來た。胸の鼓動は小指先にまで鋭く傳つて行くのを意識した。そして、私は水島や助手や看護婦の前に、いやさうして尚ほも脣を動かし續けてゐるお前の前に佇んでゐる堪らない苦痛と、赤面と、恥ぢと、戰きとにあらがつて行く事は出來なくなつた。が、私は却く事も、進む事も、耳を抑へる事も、顏を反ける事も出來なかつた。恰も地に釘づけされたやうに、凝化してしまつたやうに、私は手術臺を二三尺離れて立ち惱んでゐたのだつた。
『あたしが惡いわ、いいえ、あたしが惡いわ。でも、もう爲方がない‥‥‥どうする事も‥‥‥苦しい‥‥‥痛い‥‥‥許して、許して‥‥‥あの晩、ほんとにあの晩‥‥‥貞雄さん‥‥‥誰にも、誰にも‥‥‥考へ‥‥‥思ひ違ひ‥‥‥かんに、かんにして‥‥‥』と、お前の無氣味な鋭さを持つた聲は、何時か絶え入るやうな涙聲に變つて、其處でポツンと切れた。そして、すいすいと、宛ですべてが裏はらに變つて了つたやうな安らかな息が、お前の口を洩れて來た。
『三十‥‥‥』と、數へ聲を止めてゐた助手は、急に張り上げた聲でまたお前の耳元に叫んだ。