三右衛門が遺族は山本平作方の部屋を借りて、夢の中で夢を見るような心持になって、ぼんやりしている。未亡人は頭痛が起って寝たきりである。宇平は腕組をして何やら考え込む。只りよ一人平作の家族に気兼をしながら、甲斐々々しく立ち働いていたが、午頃になって細川の奥方の立退所が知れたので、すぐに見舞に往った。
晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬように、支度だけはして遣らんではならんぞ」叔父は宇平を若殿々々と呼んで揶揄っているのである。
「はい」と云ったりよは、その晩から宇平の衣類に手を着けた。
九日にはりよが旅支度にいる物を買いに出た。九郎右衛門が書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖いと思っていると、酉の上刻に又檜物町から出火した。おとつい焼け残った町家が、又この火事で焼けた。
十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路の松平伯耆守宗発の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。
続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心恟々としている。山本方で商人に注文した、少しばかりの品物にも、思い掛けぬ手違が出来て、りよが幾ら気を揉んでも、支度がなかなかはかどらない。
或る日九郎右衛門は烟草を飲みながら、りよの裁縫するのを見ていたが、不審らしい顔をして、烟管を下に置いた。「なんだい。そんなちっぽけな物を拵えたって、しようがないじゃないか。若殿はのっぽでお出になるからなあ」
りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので」縫っているのは女の脚絆甲掛である。
「なんだと」叔父は目を大きく睜った。「お前も武者修業に出るのかい」
「はい」と云ったが、りよは縫物の手を停めない。
「ふん」と云って、叔父は良久しく女姪の顔を見ていた。そしてこう云った。「そいつは駄目だ。お前のような可哀らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出来るものか。敵にはどこで出逢うか、何年立って出逢うか、まるで当がないのだ。己と宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かってからお前に知らせれば好いじゃないか」
「仰ゃる通、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないような、狡猾らしいような、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をじっと見た。
叔父は少からず狼狽した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖だと、諦めてくれるより外ない」
「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその万一の事のないようにいたしとうございます。女は連れて行かれぬと仰ゃるなら、わたくしは尼になって参ります」
「まあ、そう云うな。尼も女じゃからのう」
りよは涙を縫物の上に落して、黙っている。叔父は一面詞を尽して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きっぱり言い渡した。りよは涙を拭いて、縫いさした脚絆をそっと側にあった風呂敷包の中にしまった。
酒井忠実は月番老中大久保加賀守忠真と三奉行とに届済の上で、二月二十六日附を以て、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰、若又敵人死候はば、慥なる証拠を以可申立」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶持が下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所さえ極めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。
りよは小笠原邸の原田夫婦が一先引き取ることになった。病身な未亡人は願済の上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。
さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門出をしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿の若狭屋へ往って、色々問い質したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。
その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国浅井郡の産で、少い時に江戸に出て、諸家に仲間奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、幸今は酒井家から暇を取っているから、敵の見識人として附いて行っても好いと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。
九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召し抱えることにした。
九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別の盃を酌み交した。住持はその席へ蕎麦を出して、「これは手討のらん切でございます」と、茶番めいた口上を言った。親戚は笑い興じて、只一人打ち萎れているりよを促し立てて帰った。
寺に一夜寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初上野国高崎をさして往くのである。
九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束ない事が、一方から見れば、是非共為遂げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
高崎では踪跡が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町の政淳寺に山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙ることが甚しくて、一行は麦に芋大根を切り交ぜた飯を食って、農家の土間に筵を敷いて寝た。飛騨国では高山に二日、美濃国では金山に一日いて、木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。
一行が二日以上泊るのは、稀に一日の草臥休をすることもあるが、大抵何か手掛りがありそうに思われるので、特別捜索をするのである。松坂では殿町に目代岩橋某と云うものがいて、九郎右衛門等の言うことを親切に聞き取って、綿密な調べをしてくれた。その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火を認めたような気がしたのである。
松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人がある。そこへは紀伊国熊野浦長島外町の漁師定右衛門と云うものが毎日魚を送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一家と心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信不通になったので、二男定助一人をたよりにしている。その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸を身に纏って深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。
後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野仁郷村にいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門が許へ遣った。知人にたよろうとし、それが愜わぬ段になって、始めて親戚をおとずれ、親戚にことわられて、亀蔵はようよう親許へ帰る気になったらしい。定右衛門の家には二十八日に帰った。
二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云う噂が、松坂から定右衛門の方へ聞えた。定右衛門が何をしたかと問うた時、亀蔵は目上の人に創を負わせたと云った。そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山に登らせることにした。二人が剃髪した亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶縞の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍の股引を穿いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。
亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三日も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に登った。山で逢ったものもある。二十六日の夕方には、下山して橋本にいたのを人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。
松坂の目代にこの顛末を聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑を挾むものは、主従三人の中に一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。