須世理姫は広間へ帰つて来ると、壁に差した松明へ火をともした。火の光は赤々と、菅畳の上に寝ころんだ素戔嗚の姿を照らし出した。
「確に蜂の室へ入れて来たらうな?」
素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また忌々しさうな声を出した。
「私は御父様の御云ひつけに背いた事はございません。」
須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。
「さうか? では勿論これからも、おれの云ひつけは背くまいな?」
素戔嗚のかう云ふ言葉の中には、皮肉な調子が交つてゐた。須世理姫は頸珠を気にしながら、背くとも背かないとも答へなかつた。
「黙つてゐるのは背く気か?」
「いいえ。――御父様はどうしてそんな――」
「背かない気ならば、云ひ渡す事がある。おれはお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつた夫を持たねばならぬ。好いか? これだけの事を忘れるな。」
夜が既に更けた後、素戔嗚は鼾をかいてゐたが、須世理姫は独り悄然と、広間の窓に倚りかかりながら、赤い月が音もなく海に沈むのを見守つてゐた。
五
翌朝素戔嗚は何時もの通り、岩の多い海へ泳ぎに行つた。すると其処へ葦原醜男が、意外にも彼の後を追つて、勢よく宮の方から下つて来た。
彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快さうな微笑を浮べながら、
「御早うございます。」と、会釈をした。
「どうだな、昨夕はよく眠られたかな?」
素戔嗚は岩角に佇んだ儘、迂散らしく相手の顔を見やつた。実際この元気の好い若者がどうして室の蜂に殺されなかつたか? それは全然彼自身の推測を超越してゐたのであつた。
「ええ、御かげでよく眠られました。」
葦原醜男はかう答へながら、足もとに落ちてゐた岩のかけを拾つて、力一ぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を描いて、雲の赤い空へ飛んで行つた。さうして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思はれる程、遠い沖の波の中に落ちた。
素戔嗚は唇を噛みながら、ぢつとその岩の行く方を見つめてゐた。
二人が海から帰つて来て、朝餉の膳に向つた時、素戔嗚は苦い顔をして、鹿の片腿を噛りながら、彼と向ひ合つた葦原醜男に、
「この宮が気に入つたら、何日でも泊つて行くが好い。」と云つた。
傍にゐた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そつと葦原醜男の方へ、意味ありげな瞬きを送つて見せた。が、彼は丁度その時、盤の魚に箸をつけてゐたせゐか、彼女の相図には気もつかずに、
「難有うございます。ではもう二三日、御厄介になりませうか。」と、嬉しさうな返事をしてしまつた。
しかし幸ひ午後になると、素戔嗚が昼寝をしてゐる暇に、二人の恋人は宮を抜け出て彼の独木舟が繋いである、寂しい海辺の岩の間に、慌しい幸福を偸む事が出来た。須世理姫は香りの好い海草の上に横はりながら、暫くは唯夢のやうに、葦原醜男の顔を仰いでゐたが、やがて彼の腕を引き離すと、
「今夜も此処に御泊りなすつては、あなたの御命が危うございます。私の事なぞは御かまひなく、一刻も早く御逃げ下さいまし。」と、心配さうに促し立てた。
しかし葦原醜男は笑ひながら、子供のやうに首を振つて見せた。
「あなたが此処にゐる間は、殺されても此処を去らない心算です。」
「それでもあなたの御体に、万一の事でもあつた日には――」
「ではすぐにも私と一しよに、この島を逃げてくれますか?」
須世理姫はためらつた。
「さもなければ私は何時までも、此処にゐる覚悟をきめてゐます。」
葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起して、
「御父様が呼んでゐます。」と、気づかはしさうな声を出した。さうして咄嗟に岩の間を、若い鹿より身軽さうに、宮の方へ上つて行つた。
後に残つた葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つた。と、彼女の寝てゐた所には、昨夕彼が貰つたやうな、領巾がもう一枚落ちてゐた。
六
その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂の室と向ひ合つた、もう一つの室の中に、葦原醜男を抛りこんだ。
室の中は昨日の通り、もう暗黒が拡がつてゐた。が、唯一つ昨日と違つて、その暗黒の其処此処には、まるで地の底に埋もれた無数の宝石の光のやうに、点々ときらめく物があつた。
葦原醜男は心の中に、この光物の正体を怪しみながら、暫くは眼が暗黒に慣れる時の来るのを待つてゐた。すると間もなく彼の周囲が、次第にうす明くなるにつれて、その星のやうな光物が、殆ど馬さへ呑みさうな、凄じい大蛇の眼に変つた。しかも大蛇は何匹となく、或は梁に巻きついたり、或は桷を伝はつたり、或は又床にとぐろを巻いたり、室一ぱいに気味悪く、蠢き合つてゐるのであつた。
彼は思はず腰に下げた剣の柄に手をかけた。が、たとひ剣を抜いた所が、彼が一匹斬る内には、もう一匹が造作なく彼を巻き殺すのに違ひなかつた。いや、現に一匹の大蛇が、彼の顔を下から覗きこむと、それより更に大きい一匹は、梁に尾をからんだ儘、ずるりと宙に吊り下つて、丁度彼の肩の上へ、鎌首をさしのべてゐるのであつた。
室の扉は勿論開かなかつた。のみならずその後には、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、ぢつと扉の向うの容子に耳を傾けてゐるらしかつた。葦原醜男は懸命に剣の柄を握りながら、暫時は眼ばかり動かせてゐた。その内に彼の足もとの大蛇は、徐に山のやうなとぐろを解くと、一際高く鎌首を挙げて、今にも猛然と彼の喉へ噛みつきさうなけはひを示し出した。
この時彼の心の中には、突然光がさしたやうな気がした。彼は昨夜室の蜂が、彼のまはりへ群がつて来た時、須世理姫に貰つた領巾を振つて、危い命を救ふ事が出来た。してみればさつき須世理姫が、海辺の岩の上に残して行つた領巾にも、同じやうな奇特があるかも知れぬ。――さう思つた彼は咄嗟の間に、拾つて置いた領巾を取出して、三度ひらひらと振り廻して見た。……
翌朝素戔嗚は又石の多い海のほとりで、愈元気の好ささうな葦原醜男と顔を合せた。
「どうだな。昨夜はよく眠られたかな?」
「ええ。御かげでよく眠られました。」
素戔嗚は顔中に不快さうな色を漲らせて、じろりと相手を睨みつけたが、どう思つたかもう一度、何時もの冷静な調子に返つて、
「さうか。それはよかつた。ではこれからおれと一しよに、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なささうな声をかけた。
二人はすぐに裸になつて、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にゐた時から、並ぶもののない泳ぎ手であつた。が、葦原醜男は彼にも増して、殆ど海豚にも劣らない程、自由自在に泳ぐ事が出来た。だから二人のみづらの頭は、黒白二羽の鴎のやうに、岩の屏風を立てた岸から、見る見る内に隔たつてしまつた。
七
海は絶えず膨れ上つて、雪のやうな波の水沫を二人のまはりへ漲らせた。素戔嗚はその水沫の中に、時々葦原醜男の方へ意地悪さうな視線を投げた。が、相手は悠々とどんなに高い波が来ても、乗り越え乗り越え進んでゐた。
それが暫く続く内に、葦原醜男は少しづつ素戔嗚より先へ進み出した。素戔嗚は私に牙を噛んで、一尺でも彼に遅れまいとした。しかし相手は大きな波が、二三度泡を撒き散らす間に、苦もなく素戔嗚を抜いてしまつた。さうして重なる波の向うに、何時の間にか姿を隠してしまつた。
「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払はうと思つたのだが、――」
さう思ふと素戔嗚は、愈彼を殺さない内は、腹が癒えないやうな心もちになつた。
「畜生! あんな悪賢い浮浪人は、鰐にでも食はしてしまふが好い。」
しかし程なく葦原醜男は、彼自身がまるで鰐のやうに、楽々とこちらへ返つて来た。
「もつと御泳ぎになりますか?」
彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遙に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚は如何に剛情を張つても、この上泳がうと云ふ気にはなれなかつた。……
その日の午後素戔嗚は、更に葦原醜男をつれて、島の西に開いた荒野へ、狐や兎を狩りに行つた。
二人は荒野のはづれにある、小高い大岩の上へ登つた。荒野は目の及ぶ限り、二人の後から吹下す風に、枯草の波を靡かせてゐた。素戔嗚は少時黙然と、さう云ふ景色を見守つた後、弓に矢を番へながら、葦原醜男を振り返つた。
「風があつて都合が悪いが、兎に角どちらの矢が遠く行くか、お前と弓勢を比べて見よう。」
「ええ、比べて見ませう。」
葦原醜男は弓矢を執つても、自信のあるらしい容子であつた。
「好いか? 同時に射るのだぞ。」
二人は肩を並べながら、力一ぱい弓を引き絞つて、さうして同時に切つて離した。矢は波立つた荒野の上へ、一文字に遠く飛んで行つた。が、どちらが先へ行つたともなく、唯一度日の光にきらりと矢羽根が光つた儘、忽ち風下の空に紛れて、二本とも一しよに消えてしまつた。
「勝負があつたか?」
「いいえ――もう一度やつて見ませうか?」
素戔嗚は眉をひそめながら、苛立たしさうに頭を振つた。
「何度やつても同じ事だ。それより面倒でも一走り、おれの矢を探しに行つてくれい。あれは高天原の国から来た、おれの大事な丹塗の矢だ。」
葦原醜男は云ひつかつた通り、風に鳴る荒野へ飛びこんで行つた。すると素戔嗚はその後姿が、高い枯草に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の枯茨へ火を放つた。
八
色のない焔は瞬く内に、濛々と黒煙を挙げ始めた。と同時にその煙の下から、茨や小篠の焼ける音が、けたたましく耳を弾き出した。
「今度こそあの男を片づけたぞ。」
素戔嗚は高い岩の上に、ぢつと弓杖をつきながら、兇猛な微笑を浮べてゐた。
火は益燃え拡がつた。鳥は苦しさうに鳴きながら、何羽も赤黒い空へ舞ひ上つた。が、すぐに又煙に巻かれて、紛々と火の中へ落ちて行つた。それがまるで遠くからは、嵐に振はれた無数の木の実が、しつきりなくこぼれ飛ぶやうに見えた。