そこでおれは右の方法に一つの改良をほどこした。それはBにたいしてなんら強制力をもちいないことである。強制力をもちいさえしなければ、もしやり損なったさいもなんのとがめをうけずにすむわけである。
×月×日
おれは予定どおり大学をやめた。郊外の研究室の工事も着々すすんでいる。おれははじめ邸内の一部に研究室をたてようとおもった。そのほうがSをたびたび招いたりするのに都合がよいのであるが、いかに巧妙にいっても、人目のおおい市内では、おれの計略を見やぶられるおそれがあるから、不便な郊外をえらぶことにした。
×月×日
とうとう研究室ができた。研究室の秘密については、おれは都合のよい人間をしっていたので、絶対に他に洩れる心配はない。設計施工をやった人間は、研究上必要だと信じているのだ。まさかおれが殺人をする目的で、こんな装置をしたとは思っていない。
×月×日
研究はいよいよ蜘蛛ときめた。はじめは蛇にするつもりだったが、蜘蛛類にも猛毒なものがあるからそれを利用することにした。
×月×日
今日深夜ひそかにテストをしてみた。しごく成績がよい。おれがはじめ心配したのは回転速度だった。いったい吾人は等速運動をしている時に、ほかに比較すべきものがなければぜんぜん意識しないものだ。下等動物のうちには、ほかに比較すべきものがあっても平気なものがある。たとえば蠅のごときものは、はしる馬の背にでもじっととまっている。この蠅の習性はかの蠅取器なるものに利用されている。すなわち静かに回転する木片のうえに蠅の好むものをぬっておくと、蠅はそれにとまる。かれは木片がじょじょに回転して、ついにでることのできない穴倉におとしいれられるまで気がつかないのだ。
しかし、人間がはたして外界に比較すべきもののない場合に等速運動に気がつかないかどうか――真の等速運動なら心配はないが、人為的等速運動において――おれはすこし心配だった。それで回転速度をきわめてすくなくした。人は秒針の運動はよく認識することができる。しかし、秒針の運動でもちょっとみた瞬間にはわからないもので、だから人は懐中時計が動いているかどうかを試すときに、眼によらないで耳によるのを普通としている。
分針の運動にいたってはほとんど認識できないといってよい。もっとも時計のおもてには区画があるから、二三分見つめていると、一つの区画に近づくのでやや運動をみとめることができる。区画がなければほとんどわからないであろう。もしそれ時針の運動にいたっては、ぜんぜん認識することができないであろう。そこでおれは回転速度をおおよそ三時間に一回転としてテストをやってみた。結果はきわめて良好だった。
×月×日
おれはまたプランに一つの改良を加えた。最初の考えではおれはSと二人きりで研究室であおうと思っていた。しかし、二人きりではおれがあるいはSを突落したのではないかという疑いをうけるおそれがある。外部に目撃者をおくとすると、研究室の回転を見破られるおそれがある。そのうえおれは夜あたりにだれもいないとき、かつ窓から外のものがみえないときを選ばなければならぬから、目撃者を外におくわけにはいかない。そこでおれは目撃者を内部におくことにした。この方法は目的どおりSが墜落してから、研究室の移動をさとらしめないことに骨が折れる。しかし、人は異常な出来事のさいには狼狽するものだから、このときには、急激に研究室を原状にもどしても気づかれはしないだろう。
×月×日
とうとう成功した。おれはSをよんでつとめて歓待した。Sは哀れにもいまに死ぬことを知らないで、あいかわらず皮肉をまじえておれを揶揄しながら談笑した。おれはおかしさをかみこらえて、彼に毒蜘蛛の恐るべきことと、最近一匹が逃げだしていまに行方のしれないことを話してきかせてやった。さすがの彼もひじょうに気味悪がっていた。しばらくするとかねてよんであった大学の動物学教室の助手をしているKがやってきた。おれはそっとスイッチをひねって研究室をじょじょに回転させた。だれも気づかない。おれは気づかせまいとして一生懸命に話した。SやKはおれが平素のおれでないのに多少気づいたであろう。
おれはころあいを計ってかねて足許にふせてあったとたてぐもの一種を放した。蜘蛛はのそのそとSの足許にはいよった。毒蜘蛛の話におびえていた彼は蒼くなって突立った。そしてドアのそとに飛びだした。(あるいはSはおれが彼を殺すつもりで毒蜘蛛を彼にむけたと思ったかもしれぬ。彼はおれが彼を恨んでいることを多少感づいていただろうし、彼の逃げかたがあまりに真剣だったから)このときにドアは踊り場からほんの少ししか離れていなかったはずである。しかし、ほんのわずかでも離れていてはたまったものではない。彼はたちまち踏みはずして、いったん階段のなかほどに落ちて、跳ねかえって地上に落ちた。彼は即死した。おれの目的は完全にたっせられたが、よし彼が即死しなくても、おれが殺したということができないはずである。目撃者Kはむろんおれの殺意をみとめはしなかった。Sが蜘蛛をおそれて悲鳴をあげて外に飛びだして、勝手に階段からすべり落ちたのである。おれはKが狼狽しているひまに研究室を原状に復した。このときは加速度が加わったはずであるが、Kはすこしも気づかなかった。
×月×日
阿呆どもが研究室の下にきてわいわい騒いでいる。一人ぐらいおれの計略を見破るものがあってよいのだが、そんなやつはいないらしい。
×月×日
Sは死んだ。それは明かな事実だ。しかし、おれはSの死によって予期したようになぐさめられないで、なんだか物足りなくてしかたがない。おれはSを殺せばこんな蜘蛛の研究はやめるつもりだった。Sの死によって教授を失った大学はきっとおれを迎えにくるだろうと思っていたが、大学からはなんともいってこない。残念ではあるが、おれはなんだか蜘蛛の研究がやめられないような気がする。
×月×日
大学からはなんの音沙汰もない。おれはまたせっせと蜘蛛の研究をはじめだした。
×月×日
今日は熱帯産の毒蜘蛛の雌雄が手にはいった。
×月×日
おれはなんだか蜘蛛に呪われているようだ。飼ってある蜘蛛どもが、妙に探偵のような眼つきをしておれをにらんでしかたがない。
×月×日
おれは呪われている! あの熱帯産の毒蜘蛛がSの亡霊だとは気がつかなかった。あの眼をみろ、あの眼はSがこの研究室の脚下に血まみれになってよこたわっていたときの眼だ。あいつは毒蜘蛛になったのだ!
×月×日
負けてたまるものか。たかのしれた毒蜘蛛に。SもSだ。殺されるような意気地なしだけあって、蜘蛛になりさがるとは。よし来い。おれは貴様とたたかうぞ。いじめていじめ抜いてやるぞ。だがあの眼つきは、ああおれはこのごろ蜘蛛がおそろしくなってきた。眼だ眼だ。おそろしい蜘蛛の眼だ。
×月×日
蜘蛛の眼がおそろしい。おれはとうていこの部屋のなかで眠ることはできぬ。よしッ、あすはいよいよ最後の勝負だ。見ろ、Sの毒蜘蛛め、ひとつかみにつぶしてやるぞ。
* * *
おそろしい蜘蛛の日記はここで終っていた。読み終った私はおそろしさにガタガタとふるえだした。ふと気がつくと、私の周囲にズラリとならんだ函のなかから、幾百幾千と数限りない蜘蛛が右から、左から、前から、後からゾロゾロと私めがけてよってくるのだ。私は無我夢中にドアにとびついて押しあけた。ふしぎなことにはそこにちゃんと階段があった。私はあとをもみずに飛ぶように走りおりた。
数日のあいだ私は熱をだして病床によこたわっていた。そのあいだに奇妙な研究室は火を出して、内部はすっかり焼けてしまい、数百の蜘蛛もことごとく焼け死んだ。当局の見込みは乞食か浮浪人の類がはいりこんで火を出したのだろうというのだった。もし火を出さなかったら、あの異様な塔は永久に静かに回転をつづけて、容易に人に気づかれなかったかもしれないと、私はいまでもそう思っている。
(〈文学時代〉昭和五年一月号発表)