前に申したように御維新の後は財産を亡くしたという訳では無かったですが、家は非常に質素な生活を仕て居て、どうかすれば大工の木ッ葉拾いにでも遣られようという勢いでしたから、学校へ遣って貰うのさえ漸々出来たような始末で、石筆でも墨でも小さくなったからとて浪りに棄てたおぼえは無い。指に持ちにくくなった鉛筆などは必らず少し太い筆の軸へ挟んで用いて居て、而もこれを至当の事と信じて居ました。種善院様(祖父)も非常に厳格な方で、而も非常に潔癖な方で、一生膝も崩さなかったというような行儀正しい方であったそうですが、観行院様もまた其通りの方であったので、家の様子が変って人少なになって居るに関わらず、種善院様の時代のように万事を遣って往こうというので、私は毎朝定められた日課として小学校へ往く前に神様や仏様へお茶湯を上げたりお飯を供えたりする、晩は灯明をも上げたのです。それがまた一ト通のことなら宜いが、なかなかどうしてどうして少なくないので、先ず此処で数えて見れば、腰高が大神宮様へ二つ、お仏器が荒神様へ一つ、鬼子母神様と摩利支天様とへ各一つ宛、御祖師様へ五つ、家廟へは日によって違うが、それだけは毎日欠かさず御茶を供えて、そらから御膳をあげるので、まだ此上に先祖代々の忌日命日には仏前へ御糧供というを上げねばならぬ。これはたとえ味噌汁に茄子か筍の煮たのにせよ御膳立をして上げるのだから頗る手間がかかるので、これも過去帳を繰って見れば大抵無い日は無い位のもの。また亥の日には摩利支天には上げる数を増す、朔日十五日二十八日には妙見様へもという工合で、法華勧請の神々へ上げる。其外、やれ愛染様だの、それ七面様だのと云うのがあって、月に三度位は必らず上げる。まだまだ此外に今上皇帝と歴代の天子様の御名前が書いてある軸があって、それにも御初穂を供える、大祭日だというて数を増す。二十四日には清正公様へも供えるのです。御祖母様は一つでもこれを御忘れなさるということはなかったので、其他にも大黒様だの何だのがあるので、如何な日でも私が遣らなくてはならない務めは随分なものであった。勿論厳格に仕付けられたのだから別に苦労には思わなかったが、兎に角余程早く起き出て手捷くやらないでは学校へ往く間に合うようには出来ないのみならず、この事が悉皆済んで仕舞わないうちは誰も朝飯を食べることは出来ないのでした。斯のように神仏を崇敬するのは維新前の世間の習慣で、ひとり私の家のみのことではなかったのだが、私の家は御祖母様の保守主義のために御祖父様時代の通りに厳然と遣って行った、其衝に私が当らせられたのでした。畢竟祖父祖母が下女下男を多く使って居た時の習慣が遺って居たので、仏檀神棚なども、それでしたから家不相応に立派でした。しかし観行院様はまた洒落たところのあった方で、其当時私に太閤が幼少の時、仏像を愚弄した話などを仕てお聞かせなさった事もありました。然し後年、左様私が二十一歳の時、旅から帰って見たら、足掛三年ばかりの不在中に一家悉く一時耶蘇教になったものですから、年久しく堅く仕付けられた習慣も廃されて仕舞って、毎朝の務も私を限りに終りました。こういう家庭のありさまでしたから、近来私の一家族の中に、学校へ行くのに眼が覚めぬなどというもののあるのを聞くと、思わず知らず可笑しく思う位です。
学校へゆくほど面白いことは無いと思って居たため、小学校へ通って居る間一日も欠席したことは無かったでした。家の中の方が学校よりも都て厳格で、山本町に居る間は土蔵位はあったでしたが下女などは置いて無かったのに、家中揃いも揃って奇麗好きであったから晩方になると我日課の外に拭掃除を毎日々々させられました。これに就いて可笑しい話は、柄が三尺もある大きい薪割が今も家に在りますが、或日それを窃に持出しコツコツ悪戯して遊んで居たところ、重さは重し力は無し、過って如何なる機会にか膝頭を斬りました。堪らなく痛かったが両親に云えば叱られるから、人前だけは跛も曳かずに痩我慢して痛さを耐えてひた隠しに隠して居ましたが、雑巾掛けのときになって前へ屈んで膝を突くのが痛くて痛くてほとほと閉口しました。然し終に其の為めに叱られるには至りませんでしたが、今でも其疵痕は膝に名残りを止めてあります。斯ういうように朝も晩もいろいろの事をさせられたのは、其頃下女も子守も居なかったのに、御父様は昼は家に居られないし、御母様は私の下に妹やら弟やらを抱えて居られたのでしたから是非もない事でした。然しこういうように慣らされたため今でも弟などのように気不勝ではありません、至ってまめな方です。
観行院様は非常に厳格で、非常に規則立った、非常に潔癖な、義務は必らず果すというような方でしたから、種善院様其他の墓参等は毫も御怠りなさること無く、また仏法を御信心でしたから、開帳などのある時は御出かけになり、柴又の帝釈あたりなどへも折々御出でになる。其時に自分は連れて往って頂く、これはまあ折々の一つの楽みであったのです。其他に慰みとか楽みとかいって玩弄物を買うて貰うようなことは余り無かったが、然し独楽と紙鳶とだけは大好きであっただけそれ丈上手でした。併し独楽は下劣の児童等と独楽あてを仕て遊ぶのが宜くないというので、余り玩び得なかったでした。紙鳶は他の子供が二枚も三枚も破り棄てて仕舞う間に自分は一枚の紙鳶を満足に颺げて遊んで居た程でした。これは紙鳶を破るような拙なことを仕無いのと、一つは破れた紙鳶でも繕うことが上手であったからで、今でも私の手にかければ何様な紙鳶でも非常に良い紙鳶に仕て見せます、ハハハ。で、糸目の着加減を両かしぎというのにして、右へでも左へでも何方へでも遣りたいと思う方へ紙鳶が傾くように仕た上、近傍に紙鳶が揚って居ると其奴に引からめて敵の紙鳶を分捕って仕舞うので、左様甘く往くことばかりは無かったが、実に愉快で堪えられないほどの事におもって居たのです。
家庭は世の常を越えて厳重でありましたが、確にこれは私の益になったに相違無いです。別に家庭の教育などという論は無い頃のことでしたが、先ず毎日々々復習を為し了らなければ遊べぬということと、朝は神仏祖先に対して為るだけの事を必ず為る、また朝夕は学校の事さえ手すきならば掃除雑巾がけを為るということと、物を粗末にしてはならぬという事とで責め立てられたのは、私の幸福になったに相違ないと思います。また観行院様は至って注意深い方で、例えば星は四時地位の定まらないものであるのに一寸戸外へ出て天を仰いで星を御覧になると、ああ彼星が彼辺に在るから最う何時であるなぞと、ちゃんと時を知って居られた。そういう調子であったから子供心にも時々驚いて服した。また植物にしても左様である、庭の雑草などの名や効能なんぞを教えて下すった事が幾度もある。私の注意力はたしかに其為に養われて居るかと思います。
小学校を了えて後は一年ばかり中学校を修めたが、それも廃めて英学を修める傍、菊地松軒という先生に就て漢学を修めました。併し最うそれからの談は今は御免を蒙りたいです。