孝孺の父は洪武九年を以て歿し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年呉沉の薦を以て太祖に見ゆ。太祖其の挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂って曰く、此荘士、当に其才を老いしめて以て汝を輔けしめんと。閲十年にして又薦められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非ずと。太祖が孝孺を器重して、而も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於て慮を致すもの多し。然れども此は強いて解す可からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間に於て、たま/\仇家の為に累せられて孝孺の闕下に械送せられし時、太祖其名を記し居たまいて特に釈されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳漸く高くして、太祖の第十一子蜀王椿、孝孺を聘して世子の傅となし、尊ぶに殊礼を以てす。王の孝孺に賜うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲す孔だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に
謙にして以て みづから牧し、
卑うして以て みづから持す。
雍容 儒雅、
鸞鳳の 儀あり。
とあり。又其の賜詩三首の一に
文章 金石を奏し、
衿佩 儀刑を覩る。
応に世々 三輔に遊ぶべし、
焉んぞ能く 一経に困せん。
の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦知るべし。王孝孺の読書の廬に題して正学という。孝孺はみずから遜志斎という。人の正学先生というものは、実に蜀王の賜題に因るなり。
太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々孝孺を薦む。乃ち召されて翰林に入る。徳望素より隆んにして、一時の倚重するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢を承くること殆ど間無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄皆孝孺の手に出づ。三年より四年に至り、孝孺甚だ煎心焦慮すと雖も、身武臣にあらず、皇師数々屈して、燕兵遂に城下に到る。金川門守を失いて、帝みずから大内を焚きたもうに当り、孝孺伍雲等の為に執えられて獄に下さる。
燕王志を得て、今既に帝たり。素より孝孺の才を知り、又道衍の言を聴く。乃ち孝孺を赦して之を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋ぎ、孝孺の弟子廖鏞廖銘をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯廖権の子なり。孝孺怒って曰く、汝等予に従って幾年の書を読み、還って義の何たるを知らざるやと。二人説く能わずして已む。帝猶孝孺を用いんと欲し、一日に諭を下すこと再三に及ぶ。然も終に従わず。帝即位の詔を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃ち召して獄より出でしむ。孝孺喪服して入り、慟哭して悲み、声殿陛に徹す。帝みずから榻を降りて労らいて曰く、先生労苦する勿れ。我周公の成王を輔けしに法らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在ると。帝曰く、渠みずから焚死すと。孝孺曰く、成王即存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君に頼る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕が家事なり、先生はなはだ労苦する勿れと。左右をして筆札を授けしめて、おもむろに詔して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺大に数字を批して、筆を地に擲って、又大哭し、且罵り且哭して曰く、死せんには即ち死せんのみ、詔は断じて草す可からずと。帝勃然として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能く遽に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何にせんやと、声甚だ厲し。帝もと雄傑剛猛なり、是に於て大に怒って、刀を以て孝孺の口を抉らしめて、復之を獄に錮す。
孝孺の宋潜渓に知らるゝや、蓋し其の釈統三篇と後正統論とを以てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其大旨、義理の正に拠って、情勢の帰を斥け、王道を尚び、覇略を卑み、天下を全有して、海内に号令する者と雖も、其道に於てせざる者は、目して、正統の君主とすべからずとするに在り。秦や隋や王莾や、晋宋・斉梁や、則天や符堅や、此皆これをして天下を有せしむる数百年に踰ゆと雖も、正統とす可からずと為す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈其の天下を有するを謂わんやと。又曰く、天下を有して而も正統に比す可からざる者三、簒臣也、賊后也、夷狄也と。孝孺篇後に書して曰く、予が此文を為りてより、未だ嘗て出して以て人に示さず。人の此言を聞く者、咸予を訾笑して以て狂と為し、或は陰に之を詆詬す。其の然りと謂う者は、独り予が師太史公と、金華の胡公翰とのみと、夫れ正統変統の論、もとより史の為にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈其の天下を有するを謂わんやと為す。是の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪の君に面し、其の天下に誥ぐるの詔を草せんことを逼らる。嗚呼、運命遭逢も亦奇なりというべし。孝孺又嘗て筆の銘を為る。曰く、
妄に動けば 悔あり、
道は 悖る可からず。
汝 才ありと謂ふ勿れ、
後に 万世あり。
又嘗て紙の銘を為る。曰く、
之を以て言を立つ、其の道を載せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。
此等の文、蓋し少時の為る所なり。嗚呼、運命遭逢、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴我を遅つこと久し、これに臨みて命を拒まば、刀鋸我に加わらんこと疾し。嗚呼、正学先生、こゝに於て、成王いずくに在りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲って哭す。父に負かず、師に負かず、天に合して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々として、屈せず撓まず、苦節伯夷を慕わんとす。壮なる哉。
帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎に輙ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃ち之を殺す。孝孺の妻鄭氏と諸子とは、皆先ず経死す。二女逮えられて淮を過ぐる時、相与に橋より投じて死す。季弟孝友また逮えられて将に戮せられんとす。孝孺之を目して涙下りければ、流石は正学の弟なりけり、
阿兄 何ぞ必ずしも 涙潜々たらむ、
義を取り 仁を成す 此間に在り。
華表 柱頭 千歳の後、
旅魂 旧に依りて 家山に到らん。
と吟じて戮せられぬ。母族林彦清等、妻族鄭原吉等九族既に戮せられて、門生等まで、方氏の族として罪なわれ、坐死する者およそ八百七十三人、遠謫配流さるゝもの数う可からず。孝孺は終に聚宝門外に磔殺せられぬ。孝孺慨然、絶命の詞を為りて戮に就く。時に年四十六、詞に曰く、
天降乱離兮孰知其由。
奸臣得計兮謀国用猶。
忠臣発憤兮血涙交流。
以此殉君兮抑又何求。
嗚呼哀哉兮庶不我尤。
廖鏞廖銘は孝孺の遺骸を拾いて聚宝門外の山上に葬りしが、二人も亦収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷は、かつて燕王父子の間に反間の計を為したるもの、此亦戮せられぬ。
方氏一族是の如くにして殆ど絶えしが、孝孺の幼子徳宗、時に甫めて九歳、寧海県の典史魏公沢の護匿するところとなりて死せざるを得、後孝孺の門人兪公允の養うところとなり、遂に兪氏を冒して、子孫繁衍し、万暦三十七年には二百余丁となりしこと、松江府の儒学の申文に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏二子及び門人王稌等拾骸の功また空しからず、万暦に至って墓碑祠堂成り、祭田及び嘯風亭等備わり、松江に求忠書院成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈後無く祠無くして泯然として滅せんや。
節に死し族を夷せらるゝの事、もと悲壮なり。是を以て後の正学先生の墓を過ぎる者、愴然として感じ、泫然として泣かざる能わず。乃ち祭弔慷慨の詩、累篇積章して甚だ多きを致す。衛承芳が古風一首、中に句あり、曰く、
古来 馬を叩く者、
采薇 逸民を称す。
明の徳 詎ぞ周に遜らん。
乃ち其の仁を成す無からんや。
と。劉秉忠を慕うの人道衍は其の功を成して秉忠の如くなるを得、伯夷を慕うの人方希直は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任二律の一に句あり、曰く、
十族 魂の 暗き月に依る有り、
九原 愧の 青灯に付する無し。
と、李維楨五律六首の中に句あり、曰く、
国破れて 心 仍在り、
身危ふして 舌 尚存す。
又句あり、曰く、
気は壮なり 河山の色、
神は留まる 宇宙の身。
燕王今は燕王にあらず、儼として九五の位に在り、明年を以て改めて永楽元年と為さんとす。而して建文皇帝は如何。燕王の言に曰く、予始め難に遘う、已むを得ずして兵を以て禍を救い、誓って奸悪を除き、宗社を安んじ、周公の勲を庶幾せんとす。意わざりき少主予が心を亮とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或は云う帝地道より出で亡ぐと。又記す、滇黔巴蜀の間、相伝う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言を二三にするものなり。帝果して火に赴いて死せるか、抑又髪を薙いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先の伝の後に、忠賢奇秘録および致身録等の事を記して、録は蓋し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡、諸臣庇護の事を否定するの口気あり。然れども巻三百四、鄭和伝には、成祖、恵帝の海外に亡げたるを疑い、之を蹤跡せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即ち永楽三年なり。永楽三年にして猶疑うあるは何ぞや。又給事中胡濙と内侍朱祥とが、永楽中に荒徼を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人張三丰を索めんとすというを其名とすと雖も、山谷に仙を索めしむるが如き、永楽帝の聰明勇決にして豈真に其事あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可き也。蓋し此時に当って、元の余孽猶所在に存し、漠北は論無く、西陲南裔、亦尽くは明の化に順わず、野火焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢あり。且つや天一豪傑を鉄門関辺の碣石に生じて、カザン(Kazan)弑されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児(Timur)と為す。西人の所謂タメルラン也。帖木児サマルカンドに拠り、四方を攻略して威を振う甚だ大に、明に対しては貢を納ると雖も、太祖の末年に使したる傅安を留めて帰らしめず、之を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度を掠めて、デリヒを取り、波斯を襲い、土耳古を征し、心ひそかに支那を窺い、四百余州を席巻して、大元の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北に出征して、よく胡情を知る。部下の諸将もまた夷事に通ずる者多し。王の南する、幕中に番騎を蔵す。凡そ此等の事に徴して、永楽帝の塞外の状勢を暁れるを知るべし。若し建文帝にして走って域外に出で、崛強にして自大なる者に依るあらば、外敵は中国を覦うの便を得て、義兵は邦内に起る可く、重耳一たび逃れて却って勢を得るが如きの事あらんとす。是れ永楽帝の懼れ憂うるところたらずんばあらず。鄭和の艦を泛めて遠航し、胡濙の仙を索めて遍歴せる、密旨を啣むところあるが如し。而して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡は実に異を幽境に詢えるや論無し。善く射る者は雁影を重ならしめて而して射、善く謀る者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭二雁を獲ずと雖も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智、豈敢て建文を索むるを名として使を発するを為さんや。況んや又鄭和は宦官にして、胡濙と偕にせるの朱祥も内侍たるをや。秘意察す可きあるなり。