四年応文は西平侯の家に至り、止まること旬日、五月庵を白龍山に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為りて之を哭したもう。朝廷帝を索むること密なれば、帝深く潜みて出でず。此歳傅安朝に帰る。安の胡地を歴游する数万里、域外に留まる殆ど二十年、著す所西遊勝覧詩あり、後の好事の者の喜び読むところとなる。タメルランの後の哈里(Hali)雄志無し、使を安に伴わしめ方物を貢す。六年、白龍庵災あり、程済募り葺く。七年、建文帝、善慶里に至り、襄陽に至り、滇に還る。朝廷密に帝を雲南貴州の間に索む。
八年春三月、工部尚書厳震安南に使するの途にして、忽ち建文帝に雲南に遇う。旧臣猶錦衣にして、旧帝既に布衲なり。震たゞ恐懼して落涙止まらざるあるのみ。帝、我を奈何せんとするぞや、と問いたもう。震対えて、君は御心のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其夜駅亭にみずから縊れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬、程亨、郭節たま/\至る。三人留まる久しくして、帝これを遣りたまい、今後再び来る勿れ、我安居す、心づかいすなと仰す。帝白龍庵を舎てたもう。此歳永楽帝は去年丘福を漠北に失えるを以て北京を発して胡地に入り、本雅失里(Benyashili)阿魯台(Altai)等と戦いて勝ち、擒狐山、清流泉の二処に銘を勒して還りたもう。
九年春、白龍庵有司の毀つところとなる。夏建文帝浪穹鶴慶山に至り、大喜庵を建つ。十年楊応能卒し、葉希賢次いで卒す。帝因って一弟子を納れて応慧と名づけたもう。十一年甸に至りて還り、十二年易数を学びたもう。此歳永楽帝また塞外に出で、瓦剌を征したもう。皇太孫九龍口に於て危難に臨む。十三年建文帝衡山に遊ばせたもう。十四年、帝程済に命じて従亡伝を録せしめ、みずから叙を為らる。十五年史彬白龍庵に至る、庵を見ず、驚訝して帝を索め、終に大喜庵に遇い奉る。十一月帝衡山に至りたもう、避くるある也。十六年、黔に至りたもう。十七年始めて仏書を観たもう。十八年蛾眉に登り、十九年粤に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此歳阿魯台反す。二十年永楽帝、阿魯台を親征す。二十一年建文帝章台山に登り、漢陽に遊び、大別山に留まりたもう。
二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬と旅店に相遇う。此歳阿魯台大同に寇す。去年阿魯台を親征し、阿魯台遁れて戦わず、師空しく還る。今又塞を犯す。永楽帝また親征す。敵に遇わずして、軍食足らざるに至る。帰路楡木川に次し、急に病みて崩ず。蓋し疑う可きある也。永楽帝既に崩じ、建文帝猶在り、帝と史彬と客舎相遇い、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位の叔父の死を聞く。世事測る可からずと雖も、薙髪して宮を脱し、堕涙して舟に上るの時、いずくんぞ茅店の茶後に深仇の冥土に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦奇なりというべし。知らず応文禅師の如何の感を為せるを。即ち彬とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山に登りたもう。
仁宗の洪凞元年正月、建文帝観音大士を潮音洞に拝し、五月山に還りたもう。此歳仁宗また崩じて、帝を索むること、漸くに忘れらる。宣宗の宣徳元年秋八月、従亡諸臣を菴前に祭りたもう。此歳漢王高煦反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝の叔父なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従って力戦す。材武みずから負み、騎射を善くし、酷だ燕王に肖たり。永楽帝の儲を立つるに当って、丘福、王寧等の武臣意を高煦に属するものあり。高煦亦窃に戦功を恃みて期するところあり。然れども永楽帝長子を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々たり。仁宗立って其歳崩じ、仁宗の子大位に即くに及びて、遂に反す。高煦の宣徳帝に於けるは、猶燕王の建文帝に於けるが如きなり。其父反して而して帝たり、高煦父の為せるところを学んで、陰謀至らざる無し。然れども事発するに至って、帝親征して之を降す。高煦乃ち廃せられて庶人となる。後鎖縶されて逍遙城に内れらるゝや、一日帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出で、一足を伸して帝を勾し地に踣せしむ。帝大に怒って力士に命じ、大銅缸を以て之を覆わしむ。高煦多力なりければ、缸の重き三百斤なりしも、項に缸を負いて起つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃す。高煦生きながらに焦熱地獄に堕し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢てし、身幸にして志を得たりと雖も、終に域外の楡木川に死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕つ。如是果、如是報、悲む可く悼む可く、驚く可く嘆ずべし。
二年冬、建文帝永慶寺に宿して詩を題して曰く、
杖錫 来り遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟に傍ふ。
塵心 消尽して 些子も無し、
受けず 人間の物色の侵すを。
これより帝優游自適、居然として一頭陀なり。九年史彬死し、程済猶従う。帝詩を善くしたもう。嘗て賦したまえる詩の一に曰く、
牢落 西南 四十秋、
蕭々たる白髪 已に頭に盈つ。
乾坤 恨あり 家いづくにか在る。
江漢 情無し 水おのづから流る。
長楽 宮中 雲気散じ、
朝元 閣上 雨声収まる。
新蒲 細柳 年々緑に、
野老 声を呑んで 哭して未だ休まず。
又嘗て貴州金竺長官司羅永菴の壁に題したまえる七律二章の如き、皆誦す可し。其二に曰く、
楞厳を閲し罷んで 磬も敲くに懶し。
笑って看る 黄屋 団瓢を寄す。
南来 瘴嶺 千層逈に、
北望 天門 万里遙なり。
款段 久しく 忘る 飛鳳の輦、
袈裟 新に換る 兗龍の袍。
百官 此日 知る何れの処ぞ、
唯有り 羣烏の 早晩に朝する。
建文帝是の如くにして山青く雲白き処に無事の余生を送り、僊人隠士の踪跡沓渺として知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵に潜めども案に上るの日あり、禽は高空に翔くれども天に宿するに由無し。忽然として復宮に入るに及びたもう。其事まことに意表に出づ。帝の同寓するところの僧、帝の詩を見て、遂に建文帝なることを猜知し、其詩を窃み、思恩の知州岑瑛のところに至り、吾は建文皇帝なりという。意蓋し今の朝廷また建文を窘めずして厚く之を奉ず可きをおもえるなり。瑛はこれを聞きて大に驚き、尽く同寓の僧を得て之を京師に送り、飛章して以聞す。帝及び程済も京に至るの数に在り。御史僧を糾すに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の陵の旁に葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武十年に生れたまいて、正統五年を距る六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に其偽なるを断ず。僧実は鈞州白沙里の人、楊応祥というものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を戍らしめんとす。帝其中に在り。是に於て已むを得ずして其実を告げたもう。御史また今更に大に驚きて、此事を密奏す。正統帝の御父宣宗皇帝は漢王高煦の反に会いたまいて、幸に之を降したまいたれども、叔父の為に兵を動すに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。其の宣宗に紹ぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何の感をや為したまえる。御史の密奏を聞召して、即ち宦官の建文帝に親しく事えたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮というものあり、建文帝に事えたり。乃ち亮をして応文の果して帝なるや否やを探らしめたもう。亮の応文を見るや、応文たゞちに、汝は呉亮にあらずや、と云いたもう。亮猶然らざるを申せば、帝旧き事を語りたまいて、爾亮に非ずというや、と仰す。亮胸塞がりて答うる能わず、哭して地に伏す。建文帝の左の御趾には黒子ありたまいしことを思ひ出でゝ、亮近づきて、御趾を摩し視るに、正しく其のしるし御座したりければ、懐旧の涙遏めあえず、復仰ぎ視ること能わず、退いて其由を申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内に入れたてまつる。程済この事を聞きて、今日臣が事終りぬとて、雲南に帰りて庵を焚き、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏を以て呼ばれたまい、寿をもて終りたまいぬという。
女仙外史に、忠臣等名山幽谷に帝を索むるを記する、有るが如く無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣の文を為す。永楽亭楡木川の崩を記する、鬼母の一剣を受くとなし、又野史を引いて、永楽帝楡木川に至る、野獣の突至するに遇い、之を搏す、攫されてたゞ半躯を剰すのみ、殮して而して匠を殺す、其迹を泯滅する所以なりと。野獣か、鬼母か、吾之を知らず。西人或は帝胡人の殺すところとなると為す。然らば則ち帝丘福を尤めて、而して福と其死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦危きを冒す、楡木川の崩、蓋し明史諱みて書せざるある也。
数か、数か。紅篋の度牒、袈裟、剃刀、噫又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝の片舟、噫又何ぞ奇なるや。吾嘗て明史を読みて、其奇に驚き、建文帝と共に所謂数なりの語を発せんと欲す。後又道衍の伝を読む。中に記して曰く、道衍永楽十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧溥洽というもの繋がるゝこと久し。願わくは之を赦したまえと。溥洽は建文帝の主録僧なり。初め帝の南京に入るや、建文帝僧となりて遁れ去り、溥洽状を知ると言うものあり、或は溥洽の所に匿すと云うあり。帝乃ち他事を以て溥洽を禁めて、而して給事中胡濙等に命じて徧く建文帝を物色せしむ。之を久しくして得ず。溥洽坐して繋がるゝこと十余年、是に至りて帝道衍の言を以て命じて之を出さしむ。衍頓首して謝し、尋で卒すと。篋中の朱書、道士の霊夢、王鉞の言、呉亮の死と、道衍の請と、溥洽の黙と、嗚呼、数たると数たらざると、道衍蓋し知ることあらん。而して楡木川の客死、高煦の焦死、数たると数たらざるとは、道衍袁珙の輩の固より知らざるところにして、たゞ天之を知ることあらん。