此月燕王指揮李遠をして軽騎六千を率いて徐沛に詣り、南軍の資糧を焚かしむ。李遠、丘福、薛禄と策応して、能く功を収め、糧船数万艘、糧数百万を焚く。軍資器械、倶に煨燼となり、河水尽く熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭す。
七月、平安兵を率いて真定より北平に到り、平村に営す。平村は城を距る五十里のみ。燕王の世子、危きを告ぐ。王劉江を召して策を問う。江乃ち兵を率いて滹沱を渡り、旗幟を張り、火炬を挙げ、大に軍容を壮にして安と戦う。安の軍敗れ、安還って真定に走る。
方孝孺の門人林嘉猷、計をもって燕王父子をして相疑わしめんとす。計行われずして已む。
盛庸等、大同の守将房昭に檄し、兵を引いて紫荊関に入り、保定の諸県を略し、兵を易州の西水寨に駐め、険に拠りて持久の計を為し、北平を窺わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平危しとて、遂に令を下して師を班す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併せて寨を破る。房昭走りて免る。
十一月、駙馬都尉梅殷をして淮安を鎮守せしむ。殷は太祖の女の寧国公主に尚す。太祖の崩ぜんとするや、其の側に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢て天に違う者あらば、朕が為に之を伐て、と言い訖りて崩れたまえるなり。燕の勢漸く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃ち淮南の民を募り、軍士を合して四十万と号し、殷に命じて之を統べて、淮上に駐まり、燕師を扼せしむ。燕王これを聞き、殷に書を遣り、香を金陵に進むるを以て辞と為す。殷答えて曰く、進香は皇考禁あり、遵う者は孝たり、遵わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻を割き、峻厳の語をもて斥く。燕王怒ること甚し。
燕王兵を起してより既に三年、戦勝つと雖も、得るところは永平・大寧・保定にして、南軍出没して已まず、得るもまた棄つるに至ること多く、死傷少からず。燕王こゝに於て、太息して曰く、頻年兵を用い、何の時か已む可けん、まさに江に臨みて一決し、復返顧せざらんと。時に京師の内臣等、帝の厳なるを怨みて、燕王を戴くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
四年正月、燕の先鋒李遠、徳州の裨将葛進を滹沱河に破り、朱能もまた平安の将賈栄等を衡水に破りて之を擒にす。燕王乃ち館陶より渡りて、東阿を攻め、汶上を攻め、沛県を攻めて之を略し、遂に徐州に進み、城兵を威して敢て出でざらしめて南行し、三月宿州に至り、平安が馬歩兵四万を率いて追躡せるを淝河に破り、平安の麾下の番将火耳灰を得たり。此戦や火耳灰矟を執って燕王に逼る、相距るたゞ十歩ばかり、童信射って、其馬に中つ。馬倒れて王免れ、火耳灰獲らる。王即便火耳灰を釈し、当夜に入って宿衛せしむ。諸将これを危みて言えども、王聴かず。次いで蕭県を略し、淮河の守兵を破る。四月平安小河に営し、燕兵河北に拠る。総兵何福奮撃して、燕将陳文を斬り、平安勇戦して燕将王真を囲む。真身に十余創を被り、自ら馬上に刎ぬ。安いよいよ逼りて、燕王に北坂に遇う。安の槊ほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮王騏、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武悪戦して敵を却くと雖も、燕軍遂に克たず。是に於て南軍は橋南に駐まり、北軍は橋北に駐まり、相持するもの数日、南軍糧尽きて、蕪を採って食う。燕王曰く、南軍飢えたり、更に一二日にして糧やゝ集まらば破り易からずと。乃ち兵千余を留めて橋を守らしめ、潜に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞って敵の後に出づ。時に徐輝祖の軍至る。甲戌大に斉眉山に戦う。午より酉に至りて、勝負相当り、燕の驍将李斌死す。燕復遂に克つ能わず。南軍再捷して振い、燕は陳文、王真、韓貴、李斌等を失い、諸将皆懼る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土湿蒸に、疾疫漸く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦まさに熟せんとす。河を渡り地を択み、士馬を休息せしめ、隙を観て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進ありて退無し。勝形成りて而して復北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣するのみと。乃ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨る。王大に怒って曰く、公等みずから之を為せと。此時や燕の軍の勢、実に岌々乎として将に崩れんとするの危に居れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠にして、而も本拠の四囲亦皆敵たる也。燕の軍戦って克てば則ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而して当面の敵たる何福は兵多くして力戦し、徐輝祖は堅実にして隙無く、平安は驍勇にして奇を出す。我軍は再戦して再挫し、猛将多く亡びて、衆心疑懼す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽く廃りて、不振の形勢新に見われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離、不測の変を生ずる無きを保せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦宜なりというべし。然れども此時の勢、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看る明確、事を断ずる勇決、実に是れ豪傑の気象、鉄石の心膓を見わせるものならずして何ぞや。時に坐に朱能あり、能は張玉と共に初より王の左右の手たり。諸将の中に於て年最も少しと雖も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長八尺、年三十五、雄毅開豁、孝友敦厚の人たり。慨然として席を立ち、剣を按じて右に趨きて曰く、諸君乞うらくは勉めよ、昔漢高は十たび戦って九たび敗れぬれど終に天下を有したり、今事を挙げてより連に勝を得たるに、小挫して輙ち帰らば、更に能く北面して人に事えんや。諸君雄豪誠実、豈退心あるべけんや、と云いければ、諸将相見て敢て言うものあらず、全軍の心機一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能後に龍州に死して、東平王に追封せらるゝに至りしもの、豈偶然ならんや。
燕軍の勢非にして、王の甲を解かざるもの数日なりと雖も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中に、燕今は且に北に還るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖を召還したもう。輝祖已むを得ずして京に帰りければ、何福の軍の勢殺げて、単糸の紉少く、孤掌の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突に備うる為に塹濠を掘り、塁壁を作りて営と為すを常としければ、軍兵休息の暇少く、往々虚しく人力を耗すの憾ありて、士卒困罷退屈の情あり。燕王の軍は塹塁を為らず、たゞ隊伍を分布し、陣を列して門と為す。故に将士は営に至れば、即ち休息するを得、暇あれば王射猟して地勢を周覧し、禽を得れば将士に頒ち、塁を抜くごとに悉く獲るところの財物を賚う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是の如し。一は人役に就くを苦み、一は人用を為すを楽む。彼此の差、勝敗に影響せずんばあらず。
かくて対塁日を累ぬる中、南軍に糧餉大に至るの報あり。燕王悦んで曰く、敵必ず兵を分ちて之を護らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何で能く支えんや、と朱栄、劉江等を遣りて、軽騎を率いて、餉道を截らしめ、又游騎をして樵採を妨げ擾さしむ。何福乃ち営を霊壁に移す。南軍の糧五方、平安馬歩六万を帥いて之を護り、糧を負うものをして中に居らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮らしめ、子高煦をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出でゝ撃つべしと命じ、躬ずから師を率いて逆え戦い、騎兵を両翼と為す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍を麾いて縦撃し、其陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍遂に乱れたり。何福等此を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之を却けしが、高煦は南軍の罷れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還して掩い撃ちたり。是に於て南軍大に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪い、糧餉尽く燕の師に獲らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞ぎて堅守しけるが、福此夜令を下して、明旦砲声三たびするを聞かば、囲を突いて出で、糧に淮河に就くべし、と示したり。然るに此も亦天か命か、其翌日燕軍霊壁の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此を我砲となし、争って急に門に趨きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾し、人馬滾転す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷を極む。南軍こゝに至って大敗収む可からず。宗垣、陳性善、彭与明は死し、何福は遁れ走り、陳暉、平安、馬溥、徐真、孫晟、王貴等、皆執えらる。平安の俘となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等此より安きを獲んと。争って安を殺さんことを請う。安が数々燕兵を破り、驍将を斬る数人なりしを以てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、淝河の戦、公の馬躓かずんば、何以に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽を拉ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善く之を視せしむ。安後永楽七年に至りて自殺す。安等を喪いてより、南軍大に衰う。黄子澄、霊壁の敗を聞き、胸を撫して大慟して曰く、大事去る、吾輩万死、国を誤るの罪を贖うに足らずと。
五月、燕兵泗州に至る。守将周景初降る。燕の師進んで淮に至る。盛庸防ぐ能わず、戦艦皆燕の獲るところとなり、盱眙陥れらる。燕王諸将の策を排して、直に揚州に趨く。揚州の守将王礼と弟宗と、監察御史王彬を縛して門を開いて降る。高郵、通泰、儀真の諸城、亦皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓天を蔽うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為して、復立って争わんとする者無し。方孝孺、地を割きて燕に与え、敵の師を緩うして、東南の募兵の至るを俟たんとす。乃ち慶城郡主を遣りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉なり。燕王聴かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾地も且保つ能わざらんとせり、何ぞ更に地を割くを望まん、たゞ奸臣を得るの後、孝陵に謁せんと。六月、燕師浦子口に至る。盛庸等之を破る。帝都督僉事陳瑄を遣りて舟師を率いて庸を援けしむるに、瑄却って燕に降り、舟を具えて迎う。燕王乃ち江神を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫相銜みて、金鼓大に震う。盛庸等海舟に兵を列せるも、皆大に驚き愕く。燕王諸将を麾き、鼓譟して先登す。庸の師潰え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江の守将童俊、為す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱して計を方孝孺に問う。孝孺民を駆りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆等燕王に見えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢いよ/\逼る。群臣或は帝に勧むるに淅に幸するを以てするあり、或は湖湘に幸するに若かずとするあり。方孝孺堅く京を守りて勤王の師の来り援くるを待ち、事若し急ならば、車駕蜀に幸して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰は広徳に奔り、黄子澄は蘇州に奔り、徴兵を促す。蓋し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴さんとして果さず。燕将劉保、華聚等、終に朝陽門に至り、備無きを覘いて還りて報ず。燕王大に喜び、兵を整えて進む。金川門に至る。谷王橞と李景隆と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂に門を開いて降る。魏国公徐輝祖屈せず、師を率いて迎え戦う。克つ能わず。朝廷文武皆倶に降って燕王を迎う。