一
美作国粂郡に皿山という山があります。美作や粂の皿山皿ほどの眼で見ても見のこした山、という狂歌がある。その皿山の根方に皿塚ともいい小皿山ともいう、こんもり高い処がある。その謂れを尋ねると、昔南粂郡の東山村という処に、東山作左衞門と申す郷士がありました。頗る豪家でありますが、奉公人は余り沢山使いません。此の人の先祖は東山将軍義政に事えて、東山という苗字を貰ったという旧家であります。其の家に東山公から拝領の皿が三十枚あります。今九枚残っているのが、肥後の熊本の本願寺支配の長峰山随正寺という寺の宝物になって居ります。これは彼の諸方で経済学の講釈をしたり、平天平地とかいう機械をもって天文学を説いて廻りました佐田介石和尚が確かに見たと私へ話されました。何の様な皿かと尋ねましたら、非常に良い皿で、色は紫がゝった処もあり、また赤いような生臙脂がゝった処があり、それに青貝のようにピカ/\した処もあると云いますから、交趾焼のような物かと聞きましたら、いや左様でもない、珍らしい皿で、成程一枚毀したら其の人を殺すであろうと思うほどの皿であると云いました。其の外にある二十枚の皿を白菊と云って、極薄手の物であると申すことですが、東山時分に其様な薄作の唐物はない筈、決して薄作ではあるまいと仰しゃる方もございましょうが、ちょいと触っても毀れるような薄い皿で、欠けたり割れたりして、継いだのが有るということです。此の皿には菊の模様が出ているので白菊と名づけ、あとの十枚は野菊のような色気がある処から野菊と云いました由で、此の皿は東山家伝来の重宝であるゆえ大事にするためでも有りましょう、先祖が此の皿を一枚毀す者は実子たりとも指一本を切るという遺言状をこの皿に添えて置きましたと申すことで、ちと馬鹿々々しい訳ですが、昔は其様なことが随分沢山有りましたそうでございます。其の皿は実に結構な品でありますゆえ、誰も見たがりますから、作左衞門は自慢で、件の皿を出しますのは、何ういうものか家例で九月の節句に十八人の客を招待して、これを出します。尤も豪家ですから善い道具も沢山所持して居ります。殊に茶器には余程の名器を持って居りますから自慢で人に見せます。又御領主の重役方などを呼びましては度々饗応を致します。左様な理由ゆえ道具係という奉公人がありますが、此の奉公人が頓と居附きません。何故というと、毀せば指一本を切ると云うのですから、皆道具係というと怖れて御免を蒙ります。そこで道具係の奉公人には給金を過分に出します。其の頃三年で拾両と云っては大した給金でありますが、それでも道具係の奉公人になる者がありません。中には苦しまぎれに、なんの小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからつい過まっては毀して指を切られ、だん/\此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐土には古来から有った物ですが、日本では行基菩薩が始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大和国菅原寺の住僧でありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の後元祖藤四郎という人がヘーシを発明致したは貞応の二年、開山道元に従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古瀬戸と申すもので、安貞元年に帰朝致し、人にも其の焼法を教えたという。是れは今明治二十四年から六百六十三年前のことで、又祥瑞五郎太夫頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にも極綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度明和の元年に粂野美作守高義公国替で、美作の国勝山の御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣村に藤原村と云うがありまして、此の村に母子暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千代という十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾捌きなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、他から嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津山の御城主、其の頃松平越後守様の御家来遠山龜右衞門の御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格が異って居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをして僅かの小畠をもって其の日をやっと送って居る内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種々介抱に力を尽しましたが、母は次第に病が重りました。こゝに以前此の家に奉公を致していました丹治と申す老爺がありまして、時々見舞に参ります。
丹「えゝお嬢様、何うでがす今日は……」
千「おや爺やか、まアお上りな、爺や此間は誠に何よりの品を有難うよ」
丹「なに碌なものでもございませんが、少しも早く母さまの御病気が御全快になれば宜いと心配していますが、何うも御様子が宜くねえだね」
千「何うかして少しお気をお晴しなさると宜いが、私はもういけない、所詮死ぬからなんて御自分の気から漸々御病気を重くなさるのだから困るよ、今朝はお医者様を有難う、早速来て下すったよ」
丹「参りましたかえ、あのお医者さまはえらい人でごぜえまして、何でもはア此の近辺の者で彼の人に掛って癒らねえのはねえと云う、宅も小さくって良いお出入場も無えようだが、城下から頼まれて、立派なお医者さまが見放した病人を癒した事が幾許もありやすので、諸方へ頼まれて往きますが、年い老って居るから診ようが丁寧だてえます、脉を診るのに両方の手を押めえて考えるのが小一時もかゝって、余り永いもんだで病人が大儀だから、少し寝かしてくんろてえまで、診るそうです」
千「誠に御親切に診て下さいますけれども、爺や彼の先生の仰しゃるには、朝鮮の人参の入ってるお薬を飲ませないとお母さまはいけないと仰しゃったよ」
二
其の時に丹治は首を前へ出しまして、
丹「へえー何を飲ませます」
千「人参の入ってるお薬を」
丹「何のくらい飲ませるんで」
千「一箱も飲ませれば宜いと仰しゃったの」
丹「それなら何も心配は入りません、一箱で一両も二両もする訳のものじゃアございやせん、多寡の知れた胡蘿蔔ぐらいを」
千「なに胡蘿蔔ではない人参だわね」
丹「人参てえのは何だい」
千「人の形に成って居るような草の根だというが、私は知らないけれども、誠に少ないもので、本邦へも余り渡らない物だけれども、其のお薬をお母さまに服べさせる事もできないんだよ」
丹「何うかして癒らば買って上げたいもんだが、何の位のものでがす」
千「一箱三拾両だとさ」
丹「そりゃア高えな、一箱三拾両なんて魂消た、怖ろしい高え薬を売りたがる奴じゃアねえか」
千「なに売りたがると云う訳ではないが、其のお薬を飲ませればお母さまの御病気が癒ると仰しゃるから、私は其れを買いたいと思うが買えないの」
丹「むゝう三拾両じゃア仕様がねえ、是れが三両ぐらいのことなら大事な御主人の病には換えられねえから、宅を売ったって其の薬を買って上げたいとは思いますが、三拾両なんてえらい話だ、そんな出来ねえ相談を打たれちゃア困ります、御病人の前で高え声じゃア云えねえが、殊に寄ったら其様な事を機会にして他へ見せてくんろという事ではないかと思うと、誠に気が痛みやすな」
千「私も実は左様思っているの、それに就いて少しお前に相談があるからお母さまへ共々に願っておくれな、私が其のお薬を買うだけの手当を拵えますよ」
丹「拵えるたって無いものは仕様があんめえ」
千「そこが工夫だから、兎も角お母さまの処へ一緒に」
と枕元の屏風を開け、
千「もしお母様、二番が出来ましたから召上れ、少し詰って濃くなりましたから上り悪うございましょう、お忌ならば半分召上れ、あとの滓のあります所は私が戴きますから」
母「此の娘は詰らんことを云う、達者な者がお薬を服べて何うする、私は幾ら浴るほどお薬を飲んでも効験がないからいけないよ、私はもう死ぬと諦らめましたから、お前其様に薬を勧めておくれでない」
千「あら、またお母さまはあんな事ばかり云っていらっしゃるんですもの、御病気は時節が来ないと癒りませんから、私は一生懸命に神さまへお願掛けをして居ますが、あなた世間には七十八十まで生きます者は幾許も有りますよ」
母「いゝえ私は若い時分に苦労をしたものだからの、それが矢張り身体に中っているのだよ」
千「あの爺やが参りましたよ」
母「おゝ丹治、此方へ入っておくれ」
丹「はい御免なせえまし、何うでござえますな、些とは胸の晴る事もござえますかね、お嬢さんも心配しておいでなさいますから、能くお考えなせえまし、併しま旧が旧で、あゝいう生活をなすった方が、急に此様な片田舎へ来て、私のような者を頼みに思って、親一人子一人で僅かな畠を持って仕つけもしねえ内職をしたりして斯うやって入らっしゃるだから、あゝ詰らねえと昔を思って気を落すところから御病気になったものと考えますが、私だって貧乏だから金ずくではお力になれませんが、以前はあなたの処へ奉公した家来だアから、何うかして御病気の癒るように蔭ながら信心をぶって居りますが、お嬢さまの心配は一通りでないから、我慢してお薬を上んなせえまし」
母「有難う、お前の真実は忘れません、他にも以前勧めたものは幾許もあるが、お前のように末々まで力になってくれる人は少ない、私は死んでも厭いはないけれども、まだ十九や廿歳の千代を後に残して死ぬのはのう……」
丹「あなた、然う死ぬ死ぬと云わねえが宜うごぜえます、幾ら死ぬたって死なれません、寿命が尽きねえば死ねるもんではねえから、どうも然う意地の悪い事ばかり考えちゃア困りますなア、死ぬまでも薬を」
千「何だよう、死ぬまでもなんて、そんな挨拶があるものか」