話の本文
この話は予の知るところでは、『太平記』十五巻に出たのが最も古い完全な物らしい、馬琴の『昔語質屋庫』二に、ある書にいわくと冒頭して引いた文も多分それから抄出したと見える。その『太平記』の文は次のごとし。いわく、
(延元元年正月、官軍三井寺攻めに)
前々炎上の時は、寺門の衆徒、これを一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も、取る人なければ、空しく焼けて地に落ちたり、この鐘と申すは、昔竜宮城より伝はりたる鐘なり、その故は承平の頃俵藤太秀郷といふ者ありけり、ある時この秀郷、たゞ一人勢多の橋を渡りけるに、長二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはつて伏したり、両の眼は輝いて、天に二つの日を掛けたるがごとし、双べる角の尖にして、冬枯れの森の梢に異ならず、鉄の牙上下に生ひ差ふて、紅の舌炎を吐くかと怪しまる、もし尋常の人これを見ば、目もくれ魂消えて、すなはち地にも倒れつべし、されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、更に一念も動ぜずして、彼大蛇の背の上を、荒らかに踏みて、閑に上をぞ越えたりける、しかれども大蛇もあへて驚かず、秀郷も後を顧みずして、遥かに行き隔たりける処に、怪しげなる小男一人、忽然として秀郷が前に来ていひけるは、我この橋の下に住む事すでに二千余年なり、貴賤往来の人を量り見るに、今御辺ほどに剛なる人いまだ見ず、我に年来地を争ふ敵あつて、動もすれば彼がために悩まさる、しかるべくは御辺、我敵を討つてたび候へと懇に語ひけれ、秀郷一義もいはず、子細あるまじと領状して、すなはちこの男を前に立て、また勢多の方へぞ帰りける、二人共に湖水の波を分けて水中に入る事五十余町あつて、一の楼門あり、開いて内へ入るに、瑠璃の沙厚く、玉の甃暖かにして、落花自ずから繽紛たり、朱楼紫殿玉の欄干金を鐺にし銀を柱とせり、その壮観奇麗いまだかつて目にも見ず、耳にも聞かざりしところなり。
この怪しげなりつる男、まづ内へ入つて、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず、左右侍衛官前後花の粧ひ、善尽し美尽せり、酒宴数刻に及んで、夜既に深ければ、敵の寄すべきほどになりぬと周章騒ぐ、秀郷は、一生涯が間身を放たで持ちたりける、五人張にせき弦懸けて噛ひ湿し、三年竹の節近なるを、十五束二伏に拵へて、鏃の中子を筈本まで打ち通しにしたる矢、たゞ三筋を手挟みて、今や/\とぞ待ちたりける、夜半過ぐるほどに、雨風一通り過ぎて、電火の激する事隙なし、暫くあつて比良の高峯の方より、焼松二、三千がほど二行に燃えて、中に島のごとくなる物、この竜宮城を指してぞ近づきける、事の体を能々見るに、二行に点せる焼松は、皆己が左右の手に点したりと見えたり、あはれこれは、百足蛇の化けたるよと心得て、矢比近くなりければ、件の五人張に十五束三伏、忘るゝばかり引きしぼりて、眉間の真中をぞ射たりける、その手答へ鉄を射るやうに聞えて、筈を返してぞ立たざりける、秀郷一の矢を射損じて安からず思ひければ、二の矢を番うて、一分も違へず、わざと前の矢所をぞ射たりける、この矢もまた、前のごとくに躍り返りて、これも身に立たざりけり、秀郷二つの矢をば、皆射損じつ、憑むところは矢一筋なり、如何せんと思ひけるが、屹と案じ出だしたる事あつて、この度射んとしける矢先に、唾を吐き懸けて、また同じ矢所をぞ射たりける、この矢に毒を塗りたる故にや依りけん、また同じ矢坪を、三度まで射たる故にや依りけん、この矢眉間の只中を徹りて、喉の下まで、羽ぶくら責めてぞ立ちたりける、二、三千見えつる焼松も、光たちまち消えて、島のごとくにありつる物、倒るゝ音大地を響かせり、立ち寄りてこれを見るに、果して百足の蚿なり、竜神はこれを悦びて、秀郷を様々に饗しけるに、太刀一振、巻絹一つ、鎧一領、頸結うたる俵一つ、赤銅の撞鐘一口を与へて、御辺の門葉に、必ず将軍になる人多かるべしとぞ示しける。
秀郷都に帰つて、後この絹を切つて使ふに更に尽くる事なし、俵は中なる納物を、取れども/\尽きざりける間、財宝倉に満ちて、衣裳身に余れり、故にその名を、俵藤太とはいひけるなり、これは産業の財なればとて、これを倉廩に収む、鐘は梵砌の物なればとて、三井寺へこれを奉る、文保二年、三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、あへて少しも鳴らざりける間、山法師ども、悪し、その義ならば鳴るやうに撞けとて、鐘木を大きに拵へて、二、三十人立ち掛りて、破れよとぞ撞きたりける、その時この鐘、海鯨の吼ゆる声を出して、三井寺へ往かふとぞ鳴いたりける、山徒いよ/\これを悪みて、無動寺の上よりして、数千丈高き岩の上をば、転ばかしたりける間、この鐘微塵に砕けにけり、今は何の用にか立つべきとて、そのわれを取り集めて、本寺へぞ送りける、ある時一尺ばかりなる小蛇来つて、この鐘を尾を以て扣きたりけるが、一夜の内にまた本の鐘になつて、疵付ける所一つもなかりけり云々。
この鐘に似た事、支那にてこれより前に記された。予が明治四十一年六月の『早稲田文学』六二頁に書いた通り、『酉陽雑俎』(蜈蚣退治を承平元年と見てそれより六十八年前に死んだ唐の段成式著わす)三に、歴城県光政寺の磬石、膩光滴るがごとく、扣けば声百里に及ぶ、北斉の時、都内に移し撃たしむるに声出ず、本寺に帰せば声故のごとし、士人磬神聖にして、光政寺を恋うと語したとある。『続古事談』五に、経信大納言言われけるは、玄象という琵琶は、調べ得ぬ時あり、資通大弐、この琵琶を弾くに調べ得ず、その父済政、今日この琵琶僻めり、弾くべからざる日だと言うた、経信白川院の御遊に、呂の遊の後律に調べるについに調べ得ず、古人のいう事、誠なるかなと言われたとある。和漢とも貴重な器具は、人同様心も意気地もありとしたのだ。鐘が鳴らぬからとて、大騒ぎして砕いたなど、馬鹿げた談だが、昔は、東西ともに大人が今の小児ほどな了簡の所為多く、欧州でも中世まで、動物と人と同様の権利も義務もありとし、証人に引き、また刑の宣告もした(『ルヴィユー・シャンチフィク』三輯三巻、ラカッサニュの説)。されば時として、無心の什器をも、人と対等視した例も尠からず、一六二八年、仏国ラ・ロシェルに立て籠った新教徒降った時、仏王の将軍、かの徒の寺に懸けあった鐘を下ろし、その罪を浄めるため、手苛く笞懲したは良かったが、これを買った旧教徒に、王人をして代金を求めしむると、新教徒が旧教に化した時、その借金を払うに三年の猶予ある、因ってこの鐘も三年待ってくれと言ったとは珍譚じゃ(コラン・ド・プランチー『遺宝霊像評彙』一八二一―二年版、巻三、二一四頁)。
『太平記』に三井の鐘破れたるを、小蛇来り尾で叩いて本に復したとあるは、竜宮から出た物ゆえ、竜が直しに来た意味か、または鐘の竜頭が神異を現じた意味だろう、名作の物が、真物同然不思議を働く例は、『酉陽雑俎』三に、〈僧一行異術あり、開元中かつて旱す、玄宗雨を祈らしむ、一行いわく、もし一器上竜状あるものを得れば、まさに雨を致すべし、上内庫中において遍ねくこれを視せしむ、皆類せずと言う、数日後、一古鏡の鼻の盤竜を指し、喜びて曰くこれ真竜あり、すなわち持ちて道場に入る、一夕にして雨ふる〉。『近江輿地誌略』十一には、秀郷自分この鐘を鋳て三井に寄附せりとし、この鐘に径五寸ばかりの円き瑕あり、土俗いわく、この鐘を鋳る時、一女鏡を寄附して鋳物師に与う、しかれども、心私かに惜しんだので、その鏡の形に瑕生じたと。また『淡海録』曰く、昔赤染衛門、若衆に化けてこの鐘を見に来り、鐘を撫ぜた手が取り著いて離れず、強く引き離すと手の形に鐘取れた痕なり、また染殿后ともいうと。『誌略』の著者は、享保頃の人だが、自ら睹た所を記していわく、この鐘に大なる𤿎裂あり、十年ばかりも以前に、その裂目へ扇子入りたり、その後ようやくして、今は毫毛も入らず、愈えて𤿎裂なし、破鐘を護る野僧の言わく、小蛇来りて、夜ごとにこの瑕を舐むる故に愈えたりと、また笑うべし、赤銅の性、年経てその瑕愈え合う物なり、竜宮の小蛇、鐘を舐りて瑕を愈やす妙あらば、如何ぞ瑕付かざるように謀らざるや、年経て赤銅の破目愈え合うという事、臣冶工に聞けりと。予今年七十六歳の知人より聞くは、若い時三井寺で件の鐘を見たるに𤿎裂筋あり、往昔弁慶、力試しにこれを提げて谷へ擲げ下ろすと二つに裂けた、谷に下り推し合せ長刀で担うて上り、堂辺へ置いたまま現在した、またその鐘の面に柄附の鐘様の窪みあり、竜宮の乙姫が鏡にせんとて、ここを採り去ったという、由来書板行して、寺で売りいたと。
何がな金にせんと目論み、一つの鐘に二つまで瑕の由来を作った売僧輩の所行微笑の至りだが、欧州の耶蘇寺にも、愚昧な善男女を宛て込んで、何とも沙汰の限りな聖蹟霊宝を、捏造保在した事無数だ。試みに上に引いたコラン・ド・プランチーの『評彙』から数例を採らんに、ローマにキリストの臍帯および陰前皮と、キリストがカタリン女尊者に忍び通うた窓附の一室、またアレキシス尊者登天の梯あり。去々年独軍に蹂躙されたランスの大寺に、石上に印せるキリストの尻蹟あり、カタンにアガテ女尊者の両乳房、パリ等にキリストの襁褓、ヴァンドームにキリストの涙、これは仏国革命の際、実検して南京玉と判った。またローマに、日本聖教将来の開山ハビエロの片腕、ロヨラ尊者の尻、ブロア附近にキリストの父が木を伐る時出した声、カタロンとオーヴァーンは、聖母マリアの経水拭いた布切、オーグスブールとトレーヴにベルテレミ尊者の男根、それからグズール女尊者の体はブルッセルに、女根と腿はオーグスブールに鎮坐して、各々随喜恭礼されたなど、こんな椿事は日本にまたあるかいな。
されば弁慶力試しや、男装した赤染衛門の手印などは、耶蘇坊主の猥雑極まる詐欺に比べて遥かに罪が軽い、それから『川角太閤記』四に、文禄元辰二月時分より三井寺の鐘鳴りやみ、妙なる義と天下に取り沙汰の事と見ゆ、これも何か坊主どもの騙術だろうが、一体この寺の鐘性弱いのか、またさなくとも、度々の兵火でしばしば𤿎裂たのを、その都度よい加減に繕うたが、ついに鳴りやんだので、その𤿎裂や欠瑕を幸い、種々伝説を造って凡衆を誑かしたのだろう、かようの次第で三井の鐘が大当りと来たので、これに倣うて他にも類似の伝説附の鐘が出て来たは、あたかも江戸にも播州にも和歌山にも皿屋敷があったり、真言宗が拡まった国には必ず弘法大師三鈷の松類似の話があったり(高野のほかに、『会津風土記』に載った、磐梯山恵日寺の弘法の三鈷松、『江海風帆草』に見ゆる筑前立花山伝教の独鈷松、チベットにもラッサの北十里、〈色拉寺中一降魔杵を置く、番民呼んで多爾済と為す、大西天より飛来し、その寺堪布これを珍づ、番人必ず歳に一朝観す〉と『衛蔵図識』に出づ)、殊に笑うべきは、天主教のアキレスとネレウス二尊者の頭顱各五箇ずつ保存恭拝され、欧州諸寺に聖母の乳汁、まるで聖母は乳牛だったかと思わるるほど行き渡って奉祀され居るがごとし。