今日、津田が来るそうだからといって、父親がわざわざ使をよこしても、おもんは一歩も家から出ようとはしなかった。
「私がおりましては却ってわるいのです」
おもんは、蒼ざめた顔をし、絶えず恐れ、緊張してその日を過ごした。気の弱い彼女には、自分の一生の運命が定められると思う場所へ、到底顔を出す勇気がなかった。どう考えても、凶い方ばかり想像される上は猶更である。いざとなった時、おまきがどんな恐ろしい女であるかおもんは誰よりもよく知っている。
不幸の迫る足音は、誰より早く、不幸に馴れた者の耳に入る。
おもんの悲しい予感は当った。津田との縁談は、彼が帰国してからよこした一本の手紙で、調停の見込みなく破れてしまった。同時に、彼女は、普通には希望と幸福そのものであるべき結婚ということが、自分にとっては、どんなに呪われた、恐ろしいものであるかを、性根の髄から思い知らされた。
おまきは、狂気のようになって津田を罵倒した許りか、娘の上に、神も怒らすほどの証を立てた。
「それあ、勝手な真似をなさるのもようござんすが、あれの片輪を、どうぞ後からかれこれ云わないで下さい。――娘の体のことを、母親ほど知っている者はありもしないのに……」
人々は、その言葉を、信じてよいのか、疑ってよいのか知らなかった。ほんとに「母」ならば、娘の爪の褶さえ知っている筈なのだから。
一旦、艶かになったおもんの髪と頬とは、また次第に色褪せて行った。彼女の存在は、再び、周囲の人々にとって、邪魔にならない手伝いの一人というに過ぎないものとなった。
おもんは、それから六年の間、老夫人が死ぬ迄、彼女の対手を勤めた。
父の家に戻って暫らくすると、今いるS製菓会社に女工として通い、月々の食費を、僅な日給の中から母に支払った。
毎朝、薄暗いうちから、おもんが痩た背を丸め、古びた中歯の下駄を踏んで、工場に通う後姿を近所の者が見なれてから、また十年経った。
僅二十五を一寸越した許りの時、皺の多いおもんの顔は、五十近くの年よりのように見えた。三十を超えると、疲労と寂寥とに蝕まれた彼女の年を当て得る者はなくなった。