「道理でこの頃お見えなさいませんでした。どうしなさいました?」
「どうした故か頭の工合が悪いらしいんです。……恥をお話ししなければ分らないけれど、急に暴れ出しましてね、刃物三昧しかねない有様なんですから、……本当に……」
石川は、幸雄の寧ろ女らしいくらいの挙動を知っているので却って信じ難いようであった。
「前からそんな癖がおありだったんですか?」
「いいえ、それどころか、内気な代り私みたいな者の子と思えないほど学校だって出来ていたんですよ」
さし組んで来る涙を銀鼠の絞縮緬の袖で押えながら、奥さんは、
「大学を来年出るという間際にこんなことになるんですからねえ」
と淋しく頬笑んだ。石川は、挨拶のしようなく感じた。奥さんが極く若いときの子と見え、幸雄がぞろりとした和服でなどいると、母子には見えないようであった。それ故母親が猶気の毒らしかった。医者がとても家には危くて置けないから病院へ入れろと云うが、普通に云って聞くことでないから、立前を口実にこちらへ寄来す手筈をしてこちらから無理やりにでも病院へ連れ込むというのであった。
「飛んだことになって、まことに御迷惑でしょうが、職人衆には何とでもしますから、どうぞよろしくお願い申します。――そりゃ勘が早いんですから、くれぐれも知らん顔でね――ただどうぞ刃物だけは届かないとこへ始末させといて下さい。万一とんでもないことを仕出来したりすると申訳ありませんからね……」
十八日は、空の色が目にしみる快晴であった。五月で、躑躅が咲いていた。濃い紅の花が真新しい色の材木や庭石の馴染まないあらつちに照りかえした。石川からその朝になって事情をきかされた職人達は、
「へえ、そいつはことだ」
と驚いた。
「あんな旦那がおふくろを追廻すなんて話みてえだな。大学もたそくにならねえもんと見えるね」
「どうせ棟は上げられねえが、側をちょいちょいいじくって置くんだな」
九時頃自動車の爆音が裏の松林に聞えた。
「何だい」
「病院の自動車だ」
昼少し前になって原宿と伴立って幸雄が来た。
「御苦労だね」
「いいお天気で何よりでした」
「これからかい」
応待など石川の眼にはどこも異常が認められなかった。そうかと思って見ると、僅に眼が血走っているのと、幾分せかついているくらいが目立つだけであった。却って手塚の方が亢奮をかくせない様子で、
「――仕度はいいんだろうね。主人公が来たがらないんで困ったよ」
と云った。
「ここはあなたが御主人だからおいで下さらなくちゃあ立前になりません」
石川は、さり気なく、跋を合わせた。
「奥様はどうなさいました」
幸雄は、ステッキを腰にかって、働いている職人を見守りながら、
「今に来るだろう」
とぼんやり答えた。
「おーい、かかるぜ」
主屋の桁に職人が攀登った。威勢の好い懸声で仕事が始った。手塚はいつになく頻りに幸雄に話しかけた。
「あそこの樫がどいたら偉く見晴しがよくなったな、何だろうあれは……箇人の住宅にしちゃ広すぎるな」
幸雄は、遠く見晴す丘の裾に青い屋根の洋館がポツリと建っている方に目をやったが何とも返事しなかった。
「立ってちゃくたびれちゃうね、やっこらと」
手塚は運び込んだなりの庭石の一つに腰を下した。やがて幸雄も来て傍にかけた。いつの間にか背後の生垣の処に植木屋に混って詰襟を着た頑丈な男が蹲んで朝日をふかし始めた。石の門柱を立てる、土台の凝固土に菰がかぶせてある。そこから、ぶらりと背広を着た四十がらみの男が入って来た。
「やあ」
手塚は立ち上りそうにしたのを再び思いなおして、かけたまま、
「これはこれは」
と帽子に手をかけた。背広の男は、
「通りがかりにひょっと見るとどうもあなたらしかったんでね」
と云った。
「なかなか立派に出来ますね」
「いや、主人公はこちらです。――浜さんといってお親しく願っている方です、飯田、幸雄」
幸雄は、薄色の中折れを片手で頭からむくように脱いで形式的に礼を返した。
「やあ、どうぞよろしく。――これで建坪はどの位ありましょうかね」
幸雄は面倒そうに、
「引くるめて三十五坪くらいなもんです」
と答えた。
「ふーむ。――ここからだと電車の停留場はどの見当になるでしょう」
幸雄は黙っていた。すると手塚が思い出したように、
「あなた、今日は何です、電車ですか」
と訊いた。
「いや、自動車でやって来ましたが……何です?」
手塚は片手の指で半白の髭が延びた顎を撫でていたが、あちらを向いて鳶の働くのを眺めている幸雄の肩を軽く叩いた。
「君、この方が自動車で来られたんだそうだが、丁度いい工合だ、帰途乗せていただいて病院へ廻って行こうじゃないか」
自信のない不自然な微笑を浮べている手塚を幸雄はきっと頭を廻して睨んだが、見るうちに相恰が変った。唇まで土気色をし、
「いやだ!」
ときっぱり拒んだ。
「一寸廻る分にはいいだろう、次手だもの」
「いやだと云ったらいやだ」
それは昼間の普請場に響き渡る大声であった。幸雄が立つ。続いて手塚も突立った。相手を睨み据えながら、幸雄は手探りで素早くステッキを取ろうとした。ステッキはもうそこにはなかった。
「畜生!」
いかにも口惜しげで、石川の心に同情が湧いた。幸雄の二の腕を背広の男が捉えた。
「何する!」
「おとなしく君が病院へさえ来れば何でもないんだ」
「騙したな? よくも此奴! 退け! 退きゃがれったら!」
幸雄が藻掻けば藻掻くほど、腕を捉えている手に力が入ると見え、彼は顔を顰め全身の力で振りもぎろうとしつつ手塚と医員とを蹴り始めた。朝日を捨てて、詰襟の男が近よった。
「おい、若いの、頼む、押えつけてくんな」
そのときは桁の上に登っていた男まで降りて来て囲りにたかり見ていた。
「どうだいこれは。――よりつけやしない――二三分でいいんだ、これを巻くまで手をかしてくれ」
麗らかな日光にキラキラ光る白木綿を見ると、幸雄は一層猛り立った。
「どけ! 放せ! 放せ!」
三人の男が扱いかねた。一人が腰を捉まえた拍子に、ビリビリ音がして単衣羽織が綻びた。必死で片腕にぶら下っている手塚が殺気立って息を切らしながら、
「拘わん、拘わん」
と頭を振った。
「遠慮している場合じゃない、おい! 石川!」
石川は、後から幸雄の肩を確り押え、
「若旦那! 若旦那! 気を落付けなくちゃいけません」
と云った。
「静かにしなすったって分る話だ。――若旦那!」
熟練し切った様子で荷でもくくるように詰襟の男が幸雄の踝の上から両脚をぎりぎり白木綿で巻きつけ始めた。足許が棒のようになったので足掻きがつかずもろに倒れそうになっては、立ちなおって荒れる。容赦なく腹を締めつけ、遂に両腕も緊く白木綿の下に巻き込まれてしまった。幸雄は、今はハッ、ハッと息を吐きながら、鳥肌立って蒼い頬の上にぽろぽろ涙を流し始めた。男共は葬列でも送るように鎮まりかえった。愈々担ぎ上げられて、数歩進んだ。突然子供がしゃくり上げて泣くような高い歔欷の声が四辺の静寂を破った。
「石川! イシカワ!」
いい加減心を乱されていた石川はあたふた病人の頭の方に駈けよった。
「助けとくれ、ドーカ助けとくれ! 石川」
仰向いたまま食いつくように石川を見る病人の真実溢れた両眼から限りなく涙が流れ落ちた。
新しい家に移って来て、奥さんは三年の間一人で暮した。女中と爺やがいるだけであった。
「――散歩の出来るような庭にしないじゃなるまいねえ。この間もお医者さんが、なるたけ家でも病院にいるときのように規則立てて暮させなけりゃいけないっていってでしたよ」
始めの目論見と違って、平庭のまま芝生が出来たり、南を向いてフレームが出来たりした。静かに絶間なく幸雄を待っている母親の心が石川に伝わるようであった。
病人は足掛四年目になって戻って来た。
住宅地には生垣が多い。山茶花を垣にしたところもある。栗の葉が濃く色づいて広い初冬の青空の下に益々乾いて行く。低いところで白や紅の山茶花が咲き散る。落葉焚の煙が見とおしの利く桜並木の通りにも上った。緩やかな勾配を石川は住宅地の奥の方へ歩いていた。土蔵を請負った仕事場に行くところなのであったが、ずっと後の方で、
「おーい」
と呼ぶ女の声がした。落葉を鳴らして行くとまた、
「おーい」
と聞える。歩いているのは石川ぎりであった。右手は手入れよく刈込まれた要の生垣で、縁側の真赤な小布団に日が当っているのが見える。怪訝に思いつつ振返って見ると、派手な帯のところだけ遠目に立たせ若い女が小走りにこちらに向って来る。石川が止ると、手を挙げてひどくおいでおいでをし、力を盛返して駈け出した。変に縋りつくようなところがある。双方から近よると、石川は、
「何だね、お君どんじゃないか」
と云った。飯田の小間使いであった。
「何か用かい」
君は息が切れて口が利けない。口が利けないまま、石川の着ている羅紗のもじりの袖を掴んでぎゅうぎゅう来た方に引張った。
「来て下さい、直ぐ。よ! よ!」
ふと石川は火でも粗忽したのかと思い、
「火か?」
と訊いた。お君は、ふっくりした束髪の前髪がちぎれそうに首を横に振った。
「――奥さまが大変なの」
いきなり、お君の眼から大きな涙がころがり落ちた。
「早く来て下さいよ、奥様が本当に大変なのよ」
大股に戻りながら、石川は頻りに訊くが、十七のお君は動顛して泣きながら、
「大変なのよ、変になっておしまいなすったらしいのよ」
と云うだけだ。娘らしい頬に透き徹った涙が輝やいてふりかかる様が可憐であった。
「しようがねえじゃないか、確りしなけりゃ」
「こっち、こっち」
大きな八つ手が植込みになった横から石川は台所に廻った。硝子戸が開いて、外套を着た男が佇んでいる。男は石川を見ると、ひょいと頭を下げて傍へどいた。
「あら! 帰らないで下さいよあなた! あなた」
という奥さんの声に石川は、