往来に面した窓の外を、ここでも今日は砂塵が、硝子を曇らして舞い過ぎた。ダーリヤは自分独りの時は石油ストウブを燃かないことにしていた。それ故室内は暖かではない。然し、決して居心地悪い場所とは云えなかった。窓には白地に花模様の金巾のカーテンが懸っていた。一畳ばかりの勝手を区切る戸の硝子は赤い木綿糸でロシア式刺繍をした覆いがかかっているし、二階から上って来る、ジェルテルスキー家の入口である襖の左右にも、アーチのように、海老茶色に白でダリヤの花の模様あるメリンス布が垂れ下っていた。柱にかけた鏡の上に飾ってあるバラの造花、ビール箱を四つ並べた寝台の頭上の長押に、遠慮深くのせられてある三寸ばかりのキリストの肖像。――それ等は、悠くり、隅から隅へ歩いているダーリヤのやや田舎風な、にくげない全体とよく調和していた。レオニード・グレゴリウィッチはひどく背が高い。ダーリヤも二寸位しか低くなかった。そして同じように、余り艶のない金髪である。
――二十度近くも室内散歩を繰返えすと、ダーリヤは、窓の前の卓子へ戻った。その辺の畳へ、細かい羅紗の裁ち屑が沢山散らばっていた。彼女はさっきまで子供外套の裁断をしていたのだ。産科医の注意で、彼女は一日のうちに幾度かそうやって、かけていれば立って歩く、たっていればかける、或は体を長くのばして横わる。いろいろ姿勢をかえる必要があるのであった。それが書き物机にもなるし食卓にもなる机から布をかたづけているうちに、ダーリヤは少し疲れを覚えた。頬杖をつく。――風が吹きすぎる毎に思わず顰め顔をしながら外の景色を眺める。バラックのスレートの屋根屋根、その彼方に突立つ葉のない巨大なる焼棒杭のような樹木。……遠くの物干へ女が出て来て、真白なシイツらしい布を乾した。女は去る。風が吹く。白い洗濯物は気違いのようにはためいた。曇った空とその砂塵の中で真白い一枚の布は何かを感じているように動く。ダーリヤ・パヴロヴナは、ぼんやりした一種の物思いに捕われた。それは悲しみではないし、苦しみとまで鋭いものでもない。何か広い、果しない、目的の定まらないものの中に混りこみ、生きている自分達――そんな感じだ。いろいろな場所で種々な習慣言葉を持つ民衆の中に生活して来たダーリヤは、東京で、不便な言葉で、その上きりつめて暮さなければならないことに驚きはしなかった。レオニード・グレゴリウィッチが彼女の夫であると同じそれは不変の事実だ。ああ、リョーニャ! ダーリヤ・パヴロヴナの素朴な顔はその名に燃える。彼と、今自分の体の中で次第に重く、何とも云えぬ可愛いさで重く重くと育って来る嬰児とに向って、彼女の心臓は打っている。
「神よ、護り給え――」
然し、愛するリョーニャと自分の可愛い可愛い子と三人の暮し、その行末――その先の行末――。ダーリヤの妻から母になろうとする若い胸には、こう考えて来ると、いつも、永久に消え去る一条の煙の果を眺めるような当途もない心持が湧くのであった。彼女には、レオニード・グレゴリウィッチがこれ以上立身をして、自分達の生活に変りが起ろうとも思えなかった。一生のうちに、また故郷の草原を見、丸木小屋に坐って温まって来る壁の匂いをかぐ懐かしい冬の夜にめぐり合うことも無いであろう。それでも、生活は続いている。自分達の死んだ後、けれども、国籍をも持たぬ子孫は、どこで、どうやって生きるであろうか。彼等の生活も、自分達二親の生活がそうであるように、苔のように根のついたところで、根を切られぬ限り、その日その日つづいていくのであろう。然し、自分達の墓のある土地で彼等が生きつづける――どうしてそんなことが夢見られよう! ダーリヤ・パヴロヴナ自身にさえ、彼女の一生は地球儀のどの色で塗られている場所で終るのか、予想もつかないではないか。地球の面の広さ、そこに撒かれた自分達の生活の何とも云えず拠りどころなき立場――。ダーリヤ・パブロヴナは、今日のような曇った空の下によせている一つの海を想い出した。
彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ……タブ……物懶く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のように見えた。鴎がその檣のまわりを飛んだ。起重機の響……。
ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然断ち切るように、階下で風に煽られたように入口が開いた。
「あら、これ、家の娘さんですの、悧口そうな眼つきだこと……何ていう名なのお前さん」
「我々の言葉を理解しないんですよ、ちっとも」
レオニード・グレゴリウィッチのそれは声だ。ダーリヤは、いそいで階子口の襖をあけて下を覗いた。ブーキン夫人が真先に靴をぬいで階段に足をかけ、彼女に向って身振沢山に手を振った。
「おお、おお、あなたは本当に仕合せものよ、可愛いダーシェンカ! こんな天気に外を歩いて来て御覧なさい」
次いで、マリーナ・イワーノヴナ、最後にジェルテルスキーの長い脚が、左右、左右、階段の上に隠れるのを見届けると、下の小さい娘は自分達の部屋へかけ込み、息を殺して、
「お婆ちゃん、三人、異人さん」
と報告した。
三
長火鉢をはさんで姪の志津と話し込み、せきは孫の報告をききつけなかった。
「だからさ、そりゃ私みのるさんの覚悟が悪いって云ったのさ。義理にもせよ阿母さんだと思えばこそ、善ちゃんが自分の稼ぎで寒いめもさせないんだからね。孫の看病位お前……」
「おばあちゃん!」
うめは、祖母の黒繻子の衿にハンケチをかけた肩にもたれかかって押した。
「三人ですってば、異人さん」
「分りましたとさ」
長火鉢の向う側から、志津が云った。
「いい門番さんがいるのねえ、おばあさんとこ」
せきは、長火鉢の縁で煙管をはたき、大人の女でもみるような風に六つの孫娘をじろりと見た。
「おかしな子ったらないのさ、異人さん異人さんって大騒ぎさ。もうちっと大きかったらとんだ苦労だ」
「ふふふ、まさか!――珍しいんだわねえ、うめ坊」
うめは、祖母の横に坐り、上眼づかいで伯母を見上げながら、にっとはにかみ笑いをした。おかっぱで、元禄の被布を着て、うめは器量の悪い娘ではなかったが、誰からも本当に可愛がられることのない娘であった。蒼白い顔色や、変にませた言葉づかいが、育たないうちにしなびた大人のような印象を与えた。年寄りの祖母に、遊び仲間もなく育てられているうちに、うめは、六つで、もう年寄りになりかけているのであった。志津は、甘えて横座りしているうめを愛情と焦立たしさの混った眼で眺めながら、
「うめちゃん、何て名? お二階の異人さん」
と訊いた。
「ジェリさん」
「――本当? お菓子みたいな名なんだねえ」
「違うんだよ、ジェル何とか云うんだそうだけえど、あんな長い名覚えられるもんじゃあない、名なんぞ呼ぶ用がありゃしないよ」
「――二階に人がいると、でも淋しくなくっていいわ。そろそろ下駄片づけちゃどう」
せきは、薄い苦笑いを洩らした。いつか志津が遊びに来た時、
「まあ、どうしたのあの上り口の下駄ったら、何人家内です、こちらさん」
と云ったことがあった。するとうめが、とても声をひそめて伯母に説明してきかせた。
「あの下駄はね、本当は誰にも云っちゃいけないんですけれどね、わざと置いとくの。うち、おばあちゃんとうめだけで不用心だから」
志津は、田丸屋のかき餅をつまみながら、
「いくらで貸してるの」
と尋ねた。
「二十四円さ」
「おばあさん一人のお小遣いだもん結構だわ」
暫く黙っていたが、せきは軈て、
「作も仕様のない人間さ」
と呟いた。仕事の為とは云いながら、小さい孫を押しつけて旅先に暮らすことの多い作造に不満を抱いているのだろうと志津は思った。全く、婆さんだけの家というのは、何故変に湿っぽいようで、線香のような煎薬のような一種の臭いが浸みついているのだろう。志津は、或る人の世話になって、退屈勝な毎日を送っていた。他に身寄りもないので、彼女は喋りに来るのであったが、天気のどんなによい日でも、この長火鉢の前にいると戸外に日が照っていることを忘れてしまうようであった。
「作さんも、おかみさん貰えばいいのに――」
「ふん――何してるんだか――なに、この家だって、第一変てこれんな洋館まがいになんかしないで、小気の利いた日本間にしといて御覧、いくらバラックだって、この界隈のこったもの、女一人位のいい借り手がつくのさ。――仕様がありゃしない、半年も札下げとくの、第一外聞が悪いやね」
「だって書生さんなんかより異人さんの方がよかないの、金廻りがいいそうだもの」
せきは、
「どうして!」
と、顔じゅう顰めて首を振った。
「とてもだよ。出たり入ったりにうめの顔飽きる程見てたって、キャラメル一つ買って来るじゃないからね」
間をおき、更に云った。
「第一、気心が知れやしない」
志津は、
「ほーら、そろそろおばあさんの第一が始まった」と笑った。
「本当だよ、嘘だと思ったら見て御覧、我々なら大抵まあその人の眼つきを見りゃ、腹で何思ってるか位、凡その見当はつくじゃないか。二階の異人さん、こないだも私、どんな気でいるのかさぐってやれと思って、台所へ水汲みに来た時、世間話してやったのさ。喋りながら一生懸命眼を見てやるんだが――困ったねあのときばかりゃ、お前ただ変てこりんに碧いばっかりでさ――本当に――余り碧いんでおしまいにゃ気味が悪くなって引下っちゃった」
「ふふふふ、おかしなおばあさん、二階で嚏してるわよ、今頃」
凝っと二人の話をきいていたうめが、その時、いかにもませた調子で、
「ちょっと! 来ますよ」
と警告した。成程、誰かが階子を一段ずつ念入りに降りて来る跫音がする。志津は、一寸肩をすくめるようにして舌を出す真似をした。