かう云ふ妙な精神状態を、僕がしてゐるうちに、ブラウン夫婦がテラピアに滞留してゐる筈の、最後の数週が次第に過ぎ去つてしまふ。僕はジユリエツトと差向ひになることがめつたに無い。ブラウンの怪我は早く直つたので、ブラウンか細君かのうちが、始終ジユリエトと僕との間に介まつてゐる。そして出立の期が迫つて来る。さていよ/\フランクフルトへ帰る前になつて、ブラウン夫婦は此旅行の記念品を買ひに、スタンビユウルの大勧工場へ往くと云つて、僕をさそつた。或る日の午後、僕等は勧工場の中に這入つて、装飾品の売場から薫物の売場へ、反物の卓から置物の卓へとあちこちうろついた。丁度僕等があの信用の出来ない程古い家具の陳列してある、ベゼスチンと云ふ室に来た時、ジユリエツトとブラウン夫婦とが何か買物をし掛けてゐたので、僕は種々の人の込み合つてゐる中に一人居残つた。僕は連を捜しに出掛けようとしたが、その時ふと気が附いて見れば、一人の男が自分の売場に立つて、多勢の人の頭を見越して、僕に手招をしてゐた。
その男は武器を売る、髯の長い大男である。拳銃や、トルコ刀や、ヤタガンと云ふ曲つた刀や、匕首なんぞの種々な形をしたのが、その男の前に積み上げてある。僕が近寄ると、その男は身を屈めた。僕はその様子を見てゐた。突然男は身を起して、長い、曲つた刀を、高く差し上げて、華やかな、勇ましい身構をして、鞘を払つた。明るく、強く、切るやうに、鋼鉄は鞣皮の鞘から滑り出してその陰険な、人に媚びるやうな光沢を現した。男は次第に刃を抜き出しながら、茶色の髯の奥で光る白い歯を見せて、ゆるやかに微笑んで、僕の顔を見た。日のかつと照つてゐる中に、その男のさうして立つてゐる姿は、さながら運命の立像であつた。
若しジユリエツトが来て、ブラウン夫婦がダウウトの翁の氈店に往つたのを知らせなかつたら、僕はいつまでもその男を見詰めてゐただらう。氈店で僕は夫婦に逢つた。数分の後に僕が横になる筈の深紅色の氈は、そこで買つたのだ。あの氈の上に寝てしなやかなジユリエツトの裸体を抱いた時、僕は度々此死の事を思つた。あの上で此世を去らうと云ふ、不可説にして必然な心が養成せられた。此決心に先立ち、此決心に伴つた事情を、これで君に言つて聞かせた。それで僕はジユリエツトの姿、薔薇の谷の小さいトルコの珈琲店、糸杉の木、スクタリの柱形の墓石、ベゼスチンの刀剣商を思ひ浮べるのだ。そして僕はその中に最終の幸福を見出す。なぜと云ふに、死に臨んで優しい顔、美しい国、華やかな身構を思ひ浮べるより楽いことは無い。