「ライプチッヒから本が少しとどきましたから何んなら見にいらっしゃい」
と挨拶して、指の股を思い存分はだけた両手で外套をこすり続けながら忙しそうに行ってしまった。何んのこだわりもなく研究に没頭しきっているような後姿を見送りながら、園は何んとなく恥を覚えた。それは教授に向けられたのか、自分に向けられたのか、はっきりしないような曖昧なものであったが。
時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石のように彎曲していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。
芝生代りに校庭に植えられた牧草は、三番刈りの前でかなりの丈けにはなっているが、一番刈りのとはちがって、茎が細々と痩せて、おりからのささやかな風にも揉まれるように靡いていた。そして空はまた雨にならんばかりに曇っていた。何んとなく荒涼とした感じが、もう北国の自然には逼ってきていた。
園の手は自分でも気づかないうちに、外套と制服の釦をはずして、内衣嚢の中の星野から託された手紙に触れていた。表に「三隅ぬい様」、裏に「星野」とばかり書いてあるその封筒は、滑らかな西洋紙の触覚を手に伝えて、膚ぬくみになっていた。園は淋しく思った。そして気がついてゆるみかかった歩度を早めた。
碁盤のように規則正しい広やかな札幌の往来を南に向いて歩いていった。ひとしきり明るかった夕方の光は、早くも藻巌山の黒い姿に吸いこまれて、少し靄がかった空気は夕べを催すと吹いてくる微風に心持ち動くだけだった。店々にはすでに黄色く灯がともっていた。灯がともったその低い家並で挾まれた町筋を、仕事をなし終えたと思しい人々がかなり繁く往来していた。道庁から退けてきた人、郵便局、裁判所を出た人、そう思わしい人人が弁当の包みを小脇に抱えて、園とすれちがったり、園に追いこされたりした。製麻会社、麦酒会社からの帰りらしい職工の群れもいた。園はそれらの人の間を肩を張って歩くことができなかった。だから伏眼がちにますます急いだ。
大通りまで出ると、園は始めて研究室の空気から解放されたような気持ちになった。そして自分が憚らねばならぬような人たちから遠ざかったような心安さで、一町にあまる広々とした防火道路を見渡した。いつでも見落すことのできないのは、北二条と大通りとの交叉点にただ一本立つエルムの大樹だった。その夕方も園は大通りに出るとすぐ東の方に眼を転じた。エルムは立っていた。独り、静かに、大きく、寂しく……大密林だった札幌原野の昔を語り伝えようとするもののごとく、黄ばんだ葉に鬱蒼と飾られて……園はこの樹を望みみると、それが経てきた年月の長さを思った。その年月の長さがひとりでにその樹に与えた威厳を思った。人間の歴史などからは受けることのできない底深い悲壮な感じに打たれた。感激した時の癖として、園はその樹を見るごとに、右手を鍵形に折り曲げて頭の上にさしかざし、二度三度物を打つように烈しく振り卸ろすのだった。
その夕方も園は右手を振ろうとする衝動をどこかに感じたけれども、何かまたはばむものがあってそれをさせなかった。衝動はいたずらに内訌するばかりだった、彼は急いだ、大通りを南へと。
三隅の家の軒先で、園はもう一度衣嚢の手紙に手をやった。釦をきちんとかけた。そして拭掃除の行き届いた硝子張りの格子戸を開けて、黙ったまま三和土の上に立った。
待ち設けたよりももっと早く――園は少し恥らいながら三和土の片隅に脱ぎ捨ててある紅緒の草履から素早く眼を転ぜねばならなかった――しめやかながらいそいそ近づく足どりが入口の障子を隔てた畳の上に聞こえて、やがて障子が開いた。おぬいさんがつき膝をして、少し上眼をつかって、にこやかに客を見上げた。つつましく左手を畳についた。その手の指先がしなやかに反って珊瑚色に充血していた。
意外なというごくごくささやかな眼だけの表情、かならずそうであるべきはずのその人ではなかったという表情、それが現われたと思うとすぐ消えた。園はとにもかくにもおぬいさんに微かながらも失望を感じさせたなと思った。それはまた当然なことでなければならない。園を星野以上に喜んで迎えるわけがおぬいさんにはあるはずがない。おまけにその日は星野が英語を教えに来べき日なのだ。
「まあ……どうぞ」
といっておぬいさんは障子の後に身を開いた。園に対しても十分の親しみを持っているのを、その言葉や動作は少しの誇張も飾りもなく示していた。……園は上り框に腰をかけて、形の崩れた編上靴を脱ぎはじめた。
いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。
客間をも居間をも兼ねた八畳は楕円形の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが鉛墨でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が赤心の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にあるたものちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。
けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から堪えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な嬌羞というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる術をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。
けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。
「学校の方で星野さんにお遇いになりまして」
簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。
「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」
「まあ……」
おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。
「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」
そういいながら園は内衣嚢から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の温みがそれに沁みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを躊躇した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。
何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。
おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪(ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった)の根にさした銀の平打の簪を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。
おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。
藍がかってさえ見える黒い瞳は素ばしこく上下に動いて行から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。
「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」
「そういっていました」
園もまともにおぬいさんを見やりながら。
「だいじょうぶでしょうか」
「僕も心配に思っています」
この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう映ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。
おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が斑らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて醜くそして淫らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような初々しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。