原子素量の存在、その結合による物質の構成機巧、物質総量の不滅、原子の運動衝突と物性の関係、そういうようなものが予想されているばかりでなく、見方によっては電子のようなものも考えられており、分子格子のごときものも考えられている。またおそらくニウトンが直接あるいは間接に受けついだと思われる光微粒子説でも一時全く忘れられていたのが、最近にまた新しい形で復活して来たのは著しい事である。また彼が生物の母体から子孫に伝わると考えた遺伝の元子のようなものが近代の生物学者の考える遺伝素といかによく似たものであるか。そういう事を考えてみる。十九世紀二十世紀を予言した彼がどうしてきたるべき第二十一世紀を予言していないと保証する事ができようか。今われわれがルクレチウスを読んで一笑に付し去るような考えが、百年の後に新たな意味で復活しないとだれが断言しうるであろうか。
私は自分の頭になんらの「考え」をもたない科学者がかりにあるとして、そういう人がルクレチウスを百ぺん読んでもなんの役にも立とうと思わない。女学校上がりの若い細君が料理法の書物を読むような気でこの詩編のすみずみまで捜したところで、すぐ昼食の間に合いそうな材料は到底見つからない。そういう目的ならば、ざらにある安い職業的料理書を見て、完全なる総菜料理を捜したほうがいいのである。
しかし多くの科学の探究者はそれでは飽き足らないであろう。その当代のその科学の前線まで進んで来て、そこでなんらかの自分の仕事をしようとしている人たちは、眼前の闇黒な霧の中にある何物かの影を認めようとあせっているのである。そうしてその闇の底に何かしら名状のできない動くものの影か幻のようなものを認めるように思う。しかしそれが何であるかははっきりわからない。そういう状態が続いているうちに突然天の一方から稲妻のような光がひらめいて瞬間に眼前のものの正体が見える。それからいよいよその目的物を確実につかむまでにはもちろん石橋をたたいてそこまで歩いて行かなければならない。行ってみると、それは実体のない幻影であって失望する事ももちろん往々ある。しかしこの天来の閃光なしには彼らは一歩も踏み出す事はできない。
今もしルクレチウスが現代の科学者にとって有効に役立ちうるとすれば、それはまさにこの稲妻の役目をつとめうる点である。たとえば化学的分子の立体的構造を考えていた化学者や渦動原子の結合を夢みていた物理学者にはルクレチウスの曲がったり角立ったりした元子は必ずなんらかの暗示を与え得たであろうと思われる。のみならずたとえば最近にボーアがネチュアー誌上に出した(5)
The Quantum Postulate and Atomic Theory.
と題する興味ある論文を読んだ後に、ルクレチウスの第一巻を開いて、
Even time exists not of itself; but sense
Reads out of things what happened long ago,
What presses now, and what shall follow after:
No man, we must admit, feels time itself,
Disjoined from motion and repose of things.
という詩句を玩味してみると、いかに最新の学説に含まれた偉大な考えがその深い根底においてこの言葉の内容と接近しているかに驚かざるを得ない。もしルクレチウスの sense を「実験観測」と置換し、また彼の motion and repose を ΔE 等で置換すればこれはまさにボーアの所説となるのである。もちろん私はボーア、ハイゼンベルヒらがルクレチウスを読んで暗示を得たとは思わない。しかし彼らの考えが識域の下においてまさに発酵しようとしている際に彼らがもし偶然この詩句に逢着したとしたら、そして彼らの心の窓が啓示の光に対して開放されていたとしたら、おそらく彼はデスクをたたいて立ち上がり、「ユーレーカ」を叫んだのではあるまいか。これはもちろん私の想像でありドラマであるが、そういう場面が、いつかどこかで起こり得ないとは保証し難いことである。
暗示の閃光が役に立つためにはもちろん見るべきものに直面して両眼をあけていなければならないのである。それで科学の既得の領土に隠居して、虎の子の勘定でもして楽しんでいるような人にはこの書はなんにもならない。また戦線の夜の野原の中を四つんばいになってしかも目かくしされたままで手探りで遺利を拾得しようとしている「落ち穂拾い」にもこれは足しにならない。要するに私がかりに、「科学学者」と名づける部類の人々には役に立たないが、「科学研究者」と名づけるべき階級の人々には、このルクレチウスは充分に何かの役に立つであろうと信じるのである。
一方において私は若い科学の学生にこの書の一読をすすめてもよいと思うものである。学生たちは到底消化しきれないほどの栄養を詰め込まれて知識的胃病にかかっている。人は決して澱粉蛋白脂肪だけで生きて行かれるものではない。ヴィタミンが必要である。ヴィタミンだけでは生きて行かれないが、しかしヴィタミンを欠いだ栄養は壊血病を起こし脚気症を誘発する。実際現代の多くの科学の学生はこれとよく似た境遇にありはしないかと心配される。そういう学生にとってルクレチウスが確かに一種のヴィタミンの作用を生じうるであろうと考えるのである。
以上長々しい前置きによって私は多くの読者の倦怠を招いたであろうと思う。しかし多数の読者を導いてこのルクレチウスの花園に入るべき小径の荊棘を開くにはぜひともこれだけの露払いの労力が必要であると思った。それほどに現代科学のバベルの塔の頂上に住むわれわれは、その脚下にはるかな地上の事を忘れていると思ったからであった。
これから私はルクレチウスの内容についてきわめて概略ながら紹介を試みようと思う。
もちろん私は哲学史については何も知らないものであるからこの書の所説の哲学史的の意義などはよくわからない。またどこまでがデモクリトス、エピクロスの説で、どこからがルクレチウスの独創によるか、そういう考証も私の柄ではない。私はただ現代に生まれた一人の科学の修業者として偶然ルクレチウスを読んだ、その読後の素朴な感想を幼稚な言葉で述べるに過ぎない。この厚顔の所行をあえてするについての唯一の申し訳は、ただルクレチウスがまだおそらく一度も日本の科学者の間にこの程度にすら紹介されなかったという事である。
ルクレチウスに関するあらゆる文献、内容に関する詳細の考証、注釈はマンローに譲りたい。
以下ルクレチウスと私の呼ぶものは、必ずしもローマの詩人ルクレチウス・カールスをさすのではなくて、かの書に示された学説の代表者を抽象してそれをさすものである事を承知した上で以下の解説を読んでもらいたいと思うのである。
一
ルクレチウスの第一編は女神ヴィナスに呼びかけた祈りの言葉で始まっている。これはあらゆる神と宗教とを無視し否定せんとする彼にふさわしからぬようであるが、実はこの彼のヴィナスは「自然」とその「生成の方則」をさしているように思われる。そう思って読むと彼の言葉が生きて来るようである。それからヴィナスに訴えて、どうかその愛人たる軍神マルスが、自分のこの詩を書く邪魔をしないように心配してくれと頼んでいる。これもシーザーやポンペイの活躍していた恐怖時代のローマの片すみで静かに科学の揺籃をつづっていたこの人の心境をうかがわせるに足るのである。
要するにこの冒頭は詩編の形式を踏襲するために置かれた装飾のようであるが、これもまた彼の全巻をおおう情調の前奏曲として見るとおもしろいのである。
次に名はさしてないがロイキッポスあるいはエピクロスの礼賛の言葉が出て来る。そしてこのギリシアの賢人が宗教の抑圧のために理知の光をおおわれていた人類に始めて物の成立とその方則を明示した功績をたたえている。そうして今自分がこのギリシア人の発見した真理の教えを伝えんとするに当たって、自分の母語ラテンがあまりに貧しいものであるとこぼしている。しかしせいぜい骨折って「物の中心の隠れた心核を見るためのかなたよりの光」を伝え、物の最初の胚芽たる元子について物語ろうというのである。
そういう事を自分が論ずるのは神を冒涜するものと思われるかもしれない。しかしそれよりももっと冒涜的な事をしばしば犯すものは実は宗教自身である。そう言って、イフィゲニアの犠牲の悲惨な例をあげ、犠牲の罪悪である事、その罪悪を犯させるものはすなわち宗教である事、そういう事になるのは畢竟人間が死を恐れるためであるが、死が何物であるかをほんとうによく知りさえすれば、そんな恐怖もなくなり、従って宗教が罪を犯す事もなくなる。こう言って後に論ぜんとする霊魂非不滅論の伏線をおいている。わずかにこれだけ読んでも彼がいかにはえ抜きの徹底した自然科学者であるかがわかっておもしろい。現代の職業的科学者のうちには科学者の着物を着た迷信家がたくさんあるのに、二十世紀前に生まれて、エレクトロンの何であるかも知らなかったローマの詩人に、この徹底した科学者魂を発見するのはいささか皮肉である。
そうして彼は次の数句を歌う。
This terror, then, this darkness of the mind,
Not sunrise with its flaring spokes of light,
Nor glittering arrows of morning can disperse,
But only Nature's aspect and her law,