女と赤ん坊
ある日の午後、貧民窟といつてもいゝやうな、ある場末の乾うどんやの前で、私は若い女の人と話しあつてゐた。
その婦人の負ぶつてゐる赤ン坊は、この暑中に、赤い綿ネルのボタボタを着て、小さい手を私の方へ差し伸べ、パラソルの柄を堅く握つて放さなかつた。
私の顏と傘とを等分に見比べながら、ニコニコと何事をか語りかけてゐる。
肥つた可愛い子!
『お子さんは何時お生れでしたの?』
『この一月ですよ』
『まあ大きい事、もうお誕生位に見えるのね、』
私は心から可愛らしい子だと思つた。
話はもうそれで途切れてしまつた。
婦人は何處か一つ所を凝と無愛想に見つめてゐる。
そして暫く時が經過した。
すると突然疳高い聲が私の胸を貫いた。
『これツ、いまに呉れつちやうんです。』
婦人は自分で自分にその勇氣と決斷とを示すやうに、こんな重大事を事もなげにいひ放つと、何かおちつかない風に、おどおどと私の顏を見てゐた。
私にも何か急に重いものが、自分の方へ倒れがゝつてくるやうな息苦しさが感じられた。
『折角まあこんなにして、御親類へでもこのお子をおあげになるといふんですか?』
對手の感情を支えるやうな氣持ちでいふ。
すると婦人は、燻ゆぶつてゐるけれど玉子なりの眼鼻立ちの整つた面をふりあげて、
『いゝえ、これから搜さなきやならないんですよ、あなた……』
訴へるやうな表情でいつた。
赤ン坊は背中で機械の龜の子のやうに、ぷりぷりと手足を浮かして泳いでた。
何の條件もなしに無造作に與へるといふ、この快活な赤ン坊を見てゐると、知らず知らず、私は桃太郎のお婆さんのやうな悦びを感じずにはゐられなくなつた。
赤ン坊もその母親のやうに、中高なはつきりとした顋をしてゐた。
然し……どういふ運命の子、どういふ遺傳を背負つてる、どういふ性格……段々赤ン坊の顏を見てゐる中に、黒雲のやうなものが私の心に襲來してくる。
そして赤ン坊が何か急に、暗い大きい背景の中から浮かみ出してる魔物のやうに感じられても來るのだつた。
またその赤ン坊の生命の中から流れる暖いものが、永遠に向つて蔓草のやうに根を張つてゆくだろう事を思ふと、私はひやりと手をひつこめて、何か非常な冷酷な事を敢てするやうに、
『さようなら。』と其處を見棄てた。
けれど私はそれから幾日經つても何處までいつても、
『これ今にくれつちやうんです。』さういつて私を見た婦人の瞳が壁虎のやうに、私の背中に啖ひついてゐるやうな氣がしてならない、おそらくは今日までも――。