と、あわてたやうに外に飛び出した。
その夜二人は、各々の心のなかに響く子供の聲に、幾度となく目覺めて耳をすました。そしてあけやすい夏の空が白んだと思ふと、巍は飛び起きて部屋の戸をあけはなした。白い曉の空氣は、靜かに部屋のなかに流れ込んだ。けれども何物もないすべてのものを奪ひ取られたやうな彼は、ぶらつと部屋のなかに立つてゐた。そして彼女は流れて來た白い朝の光りをそつと見ると、堪へがたく悲しみに打たれたやうに、再び眼を閉ぢた。
巍は氣がついたやうに、幸子の樣子を見てくると言つて家を出た。家のなかはすつかり靜まりかへつてしまつた。
多緒子は、その靜けさのなかに一人とり殘されたやうに、ぢつと眼を閉ぢてゐることが出來なかつた。彼女の心は我子を思ふ愛情の堪へがたさに波うつて、そしてはげしくふるへてゐた。彼女はたゞ一人靜かに起き上つた、そして力なくゐざりながら窓際によつて、霧につゝまれた裏の松林の小路を見つめた、多緒子は、かうして自分が見つめてゐるうちに、ひよつとどこかの松の陰から幸子が夫の手に抱かれて出て來やしないか。この小路を歩いて來やしないか。と思はれてならなかつたのだ、もしやさうして私の所に來るのだつたならば、出來るだけこの窓から眼のとゞくかぎりの遠くに歩いて來る夫、我子をも見のがすまいと思ひつめてゐた。
『母さんや、母さんや、』
ふつと霧につゝまれた松林のなかから、巍の喜びにみちたやうな聲を聞いた時、多緒子ははつとして大きな眼を見はりながら、
『幸子や。』と漸く咳の出さうな咽喉をおさへて、半ばかすれたやうな聲で出來るだけ大きく聞えるやうにと叫んだ。するともういつの間にか幸子が、不似合な冬の頃の赤い着物を無雜作にきせられて、巍に抱かれながら、松林の小路を此方へ向つて歩いて來てゐるのであつた。
多緒子は、入つて來た夫の手から幸子をとつて抱きしめた。幸子は大聲で泣きながら、彼女の乳をさぐつた。多緒子は涙ぐみながら、夢中になつて乳を與へた。
『あゝ可哀想に、可哀想になあ。』
巍は幸子をなだめるやうに言つた。すると彼女はすぐに、
『どんな風にして居りまして、おとなしく遊んで居りまして。』と、氣づかはしさうに彼の顏を見た。
『駄目だ。俺はもう幸子をやらないよ。可哀想だ、親があるのに子供を親の許から離して、他にあづけるなんていふ法はない。俺が行つたら幸子は、眞黒な蚊帳のなかのきたないおかみさんの大きな蒲團のなかにころがつて、一生懸命泣いてゐるんだ。そしておかみさんはなにか仕事をしてゐるんだらう。「幸子。」つて俺が入る時に呼んだらば、すぐ驚いたやうに泣きやんで、四邊をぐるぐる見てゐるのさ。そしてまた火のつくやうに泣き出したんだ。俺がいそいで行つて、蚊帳のなかから幸子を出して抱き上げようとして見ると、幸子の身體が一晩ですつかり蚤にくはれて眞赤になつてるんだ。多緒子、見てごらん、まるで金魚のやうになつてゐるんだ。たつた一晩で、のみとり粉も買つてやつたのに、金魚のやうに食はれてゐるんだ。これぢや泣くのもあたり前だよ。きつと昨晩は夜通し泣いてゐたんだらうな可哀想に、もうどこへもやらないよ。父さんが夜一つもねないでもいゝ、父さんが抱いて、お前をよくねせてやるからな。もう大丈夫だ。もう決してどこへもやらないよ。一晩でも父さんがお前をはなしたのは、本當に惡かつたな。』
と、いつか巍の言葉は幸子に對して言つてゐるのであつた。多緒子は、その話を聞いて涙ぐみながら、もはやほゝ笑んで乳房からはなれてゐた幸子の身體を、着物をほどいて見てゐた。本當に一つも蚤にくはれなかつた子供の美しい肌が、幾許とも知らないぶつ/\の爲めに眞赤になつてゐるのであつた。
あゝそればかりでない、多緒子は一夜のうちに清い、美しい、愛する我子がどことなくよごされ、どことなく汚されたものゝやうになつたやうな氣がした。如何なる血のものか、いかなる肉體のものか、わからない他人の乳、それがわづかでも我子の肉體を流れたかと思ふと、彼女はとりかへしのつかないことをしたやうな氣がしてならなかつた。
またすべて、只の一夜で幸子のものが部屋のなかに擴げられ、部屋のなかに我子のすべてが行き渡つてるやうな氣がした。
それから巍は日中、ほとんど一人の手で幸子の守をした。そして漸くのことで牛乳をのませた。けれども夕方になると、砂山の上の小さな丸い草の葉を凉しい風が靜かにふき初めると、幸子は一日の務め、苦しい務め、忍耐にたへかねたといふやうに、そして逃れるやうに泣いて母親を求めた。誰の手にも誰れの懷にも行かなかつた。そして母親の懷に抱かれないならば、一夜でも泣きあかさうとした。そして、決して眠るまいと決心してゐるやうであつた。けれどもどんなに泣き叫んでる時でも多緒子の胸に抱かれゝばすぐ安らかに寢た、しかし一夜の間幸子は夢にも母親の胸をはなれまいとしてすがりついた。幸子は、すべてをさとつてるやうに、只夜だけの我に安息を與へて呉れと願ふやうに、朝になれば誰の手にもよろこんで、小さな可愛い手を出した。
夏がすぎて爽やかな秋になろうとするころ、多緒子の肉體もいつか心よくなつて來た。氣の向いた朝や夕べには、折々砂の上に片足をおろすこともあつた。そして幸子の咳は殆んど忘れたやうに根だえてゐた。
幸子は、機嫌がよくなつた。めつたに泣く事がなかつた。そしてまた肥えて來た。巍は夕方幸子を抱いて、樂しさうな讃美歌を大聲で歌ひながら、砂山から海の方へ行つた。そしてまた小高い砂山の上に立つて空を見上げながら、大聲で歌を唄つた。そしてまた多緒子が寢てゐるすぐま近かな家の方を見おろして、
『かあさん、かあさん。』と呼んだ。多緒子は床のなかで、夫の唄ふ歌の聲を嬉しさうに聞いてゐた。そして快くなりかけた肉體のすべてに幸福な哀愁が、靜かに流れてゐるのを覺えた。
『かあさん、かあさん。』
巍の聲がまた彼女の耳にひつついて來ると、多緒子は笑ひながら起き上つて、ゐざりながら縁側に出た。そして遠い砂山の上に立つて、落日に顏を赤くそめながら、夕風に髮をふかれて、大聲で歌を唄つてるわが夫と我子とを見た。彼女は彼とともに大聲を出して歌を合せやうとした。しかし聲が出なかつた。
彼女は笑つた。そして小さな聲ですぐ眼の前の人を呼ぶやうに、しかしながら遠い我子と我夫とを見つめて、
『幸子、父さん。』
と呼んだ。