芥川竜之介君
芥川竜之介君が自殺した。
私が同君の顔を見たのはわずかに三度か四度くらいのものである。そのうちの一度は夏目先生のたしか七回忌に雑司が谷の墓地でである。大概洋服でなければ羽織袴を着た人たちのなかで芥川君の着流しの姿が目に立った。ひどく憔悴したつやのない青白い顔色をしてほかの人の群れから少し離れて立っていた姿が思い出される。くちびるの色が著しくあかく見えた事、長い髪を手でなで上げるかたちがこの人の印象をいっそう憂鬱にした事などが目に浮かんで来る。参拝を終わってみんなが帰る時にK君が「どうだ、あとで来ないか」と言った時に黙ってただ軽く目礼をしただけであったと覚えている。そんな事まで覚えているのは、その日の同君が私の頭に何か特別な印象を刻みつけたためかと思われる。
もう一度はK社の主催でA派の歌人の歌集刊行記念会といったようなものを芝公園のレストーランで開いた時の事である。食卓で幹事の指名かなんかでテーブルスピーチがあった。正客の歌人の右翼にすわっていた芥川君が沈痛な顔をして立ち上がって、自分は何もここで述べるような感想を持ち合わさない。ただもししいて何か感じた事を述べよとならば、それは消化器の弱い自分にとって今夜の食卓に出されたパンが恐るべきかたいパンであったという事であると言って席についた。その夜の芥川君には先年雑司が谷の墓地で見た時のような心弱さといったようなものは見えなかった。若々しさと鋭さに緊張した顔容と話しぶりであった。しかし何かしら重い病気がこの人の肉体を内側から虫ばんでいる事はだれの目にもあまりに明白であった。「恐るべきかたいパン」、この言葉が今この追憶を書いている私の耳の底にありあり響いて聞こえる。そしてそれが今度の不慮の死に関する一つの暗示ででもあったような気がしてならない。
あの時同じ列にすわった四五人の中でもう二人は故人となった。そのもう一人は歌人のS・A氏である。
過去帳
丑女が死んだというしらせが来た。彼女は郷里の父の家に前後十五年近く勤めた老婢である。自分の高等学校在学中に初めて奉公に来て、当時から病弱であった母を助けて一家の庶務を処理した。自分が父の没後郷里の家をたたんでこの地へ引っ越す際に彼女はその郷里の海浜の村へ帰って行った。彼女の家を立てるべき弟は日露戦争で戦死したために彼女はほんとうの一人ぽっちであったので、他家に嫁した姉の女の子を養女にしてその世話をしているという事であった。
母の存命中は時々手紙をよこしていたが、母の没後は自然と疎遠になっていたので今度の病気の事も知らないでいた。年とってからはいろいろの病気をもっていたそうであるから、たぶんはそのうちのどれかのために倒れたものであろう。
彼女はあらゆる意味で忠実な女であった。物事を中途半端にすることのできないたちであった。その性質は自然に往々「我」の強さの形をとって現われた。また一方無学ではあるが女には珍しい明晰なあたまと鋭い観察の目をもっていた。だれでもかまわず無作法にじっと人の顔を見つめる癖があった、その様子が相手の目の中からその人の心の奥の奥まで見通そうとするようであった。実際彼女にはそういう不思議な能力が多分にあったように見える。人間の技巧の影に隠れた本性がそのままに見えるらしかった。そういう点で彼女は多くの人からはむしろはばかられあるいは憎まれたようである。たださすがに女であるだけに自分自身の内部を直視する事はできなかったらしい。
ある時ある高い階級の婦人が衆人環視の中で人力車を降りる一瞬時の観察から、その人の皮膚のある特徴を発見してそれを人に話したので、実に恐ろしい女だと言ってそれが一つ話になった。
彼女は日本の女には珍しい立派な体格の所有者であった。容貌も醜くないルーベンス型に属していた。挙動は敏活でなくてむしろ鈍重なほうであったが、それでいて仕事はなんでも早く進行した。頭がいいからむだな事に時を費やさないのである。そうして骨身を惜しむ事を知らないし、油を売る事をしらなかったせいであろう。
自分は彼女の忠実さに迷惑を感ずる事も少なくなかった。かまわないで打っちゃっておいてもらいたい事を決してそうはしてくれなかった。つまり二つの種類のちがったイーゴイストはこの点で到底相容れる事ができなかったのであろう。
妙な事を思い出す。父の最後の病床にその枕もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制したが、聞かないで何杯となくしゃくっては飲んでいた。彼女の目の周囲には紫色の輪ができていた事をはっきり思い出す事ができる。
昨年母の遺骨を守って帰省した時に、丑女はわざわざ十里の道を会いに来てくれた。その時彼女の髪の毛に著しく白いものが見えて来たのに気がついた。自分の年老いた事を半分自慢らしく半分心細そうに話した。たぶんことしで五十二三歳であったろうと思う。
自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。たとえ生きていてももう再び会う事があるかどうかもわからず、通り一ぺんの年賀や暑中見舞い以外に交通もない人は、結局は思い出の国の人々であるにもかかわらず、その死のしらせはやはり桐の一葉のさびしさをもつものである。
雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々書けば限りはなく、それを書くという事はつまり自分の生涯の自叙伝を書く事になる。これは容易には思い立てない仕事である。そうしておそらくそれを書き終わるより前に自分自身がまただれかの過去帳中の人になるであろう。
身近い人であればあるほどその追憶の荷はあまりに重くて取り上げようとする筆の運びを鈍らせる。ただ思い出の国の国境に近く住むような人たちの事だけが比較的やすらかな記録の資料となりうるようである。
自分の過去帳に載せらるべくしてまだ載せられてないものには三匹の飼い猫がある。不思議な事には追懐の国におけるこれらの家畜は人間と少しも変わらないものになってしまっている。口もきけば物もいう。こちらの心もそのままによく通ずる。そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少の苦みを伴なわない事はまれであるのに、これらの家畜の思い出にはいささかも苦々しさのあと味がない。それはやはり彼らが生きている間に物を言わなかったためであろう。
猫の死
「玉」は黄色に褐色の虎斑をもった雄猫であった。粗野にして滑稽なる相貌をもち、遅鈍にして大食であり、あらゆるデリカシーというものを完全に欠如した性格であった。従って家内じゅうのだれにも格別に愛せられなかった。小さい時分は一家じゅうの寵児である「三毛」の遊戯の相手としての「道化師」として存在の意義を認められていたのが、三毛も玉も年を取って、もうそう活発な遊戯を演ずる事がなくなってからは、彼は全く用のない冗員として取り扱われていた。もちろんそれに不平らしい顔もなく、空々寂々として天命を楽しんでいるかのようにも思われた。
ただ一つ困った事にはこの僧侶のような玉にもやはり春の目さめる日はあった。さかりがつくと彼は所かまわず尿水を飛ばして襖や器具をよごした。あまりやっかいをかけるから家族のほうから玉を追放したいという動議が出た。そうしないでこの悪癖を直す方法はないかと思って獣医に相談すると、それは去勢さえすればよいとの事であった。いくら猫でもそれは残酷な事で不愉快であったが、追放の衆議の圧迫に負けてしまってとうとう入院させて手術を受けさせた。
手術後目立っておとなしく上品にはなったが、なんとなく影の薄い存在となったようである。それからまもなくある日縁側で倒れて気息の絶え絶えになっているのを発見して水やまたたびを飲ませたら一時は回復した。しかしそれから二三日とたたないある朝、庭の青草の上に長く冷たくなっているのを子供が見つけて来て報告した。その日自分は感冒で発熱して寝ていたが、その死骸をわざわざ見る気がしなかったから、ただそのままに裏の桃の木の根方に埋めさせた。目で見なかった代わりに、自分の想像のカンバスの上には、美しい青草の毛氈の上に安らかに長く手足を延ばして寝ている黄金色の猫の姿が、輝くような強い色彩で描かれている。その想像の絵が実際に目で見たであろうよりもはるかに強い現実さをもって記憶に残っている。
「三毛」はいろいろの点において「玉」とはまさに対蹠的の性質をもった雌猫であった。だれからもきれいとほめられる容貌と毛皮をもって、敏捷で典雅な挙止を示すと同時に、神経質な気むずかしさをもっていた。もちろん家族の皆からかわいがられ、あらゆる猫へのごちそうと言えばこの三毛のためにのみ設けられた。せっかく与える魚肉でも少し古ければ香をかいだままで口をつけない。そのお流れをみんな健啖な道化師の玉が頂戴するのであった。
満七年の間に三十匹ほどの子猫の母となった。最後の産のあとで目立って毛が脱けた。次第に食欲がなくなり元気がなくなった。医師に見てもらうとこれは胸に水を持ったので治療の方法がないとの事であった。この宣告は自分たちの心を暗くした。そのころはもう一日ほとんど動かずに行儀よくすわっていて、人が呼ぶとまぶしそうな目をしばたたいて呼ぶ人の顔を見た。そうしていつものように返事を鳴こうとするが声が出なかった。