さて智馬と同類ながら譚が大層誇大されたのが、仏経にしばしば出る馬宝の話だ。転輪聖王世に出でて四天下を統一する時、七つの宝自ずから現われその所有となる。七宝とはまず女宝とて、膚艶に辞潔く妙相奇挺黒白短なく、肥痩所を得、才色双絶で志性金剛石ほど堅い上に、何でも夫の意の向うままになり、多く男子を産み、種姓劣らず、好んで善人を愛し、夫が余女と娯しむ時も妬まぬ、この五つの徳あり。また多言せず、邪見せず、夫の不在に心を動かさぬ、三つの大勝あり。さて夫が死ねば同時に死んでしまうそうだから、後家にして他人へかかる美婦を取らるる心配も入らぬ重宝千万の女だ。それから珠宝、輪宝、象宝、馬宝、主兵宝、長者宝という順序だが、女宝の講釈ほどありがたからぬから一々弁ぜず、馬宝だけの説明を為さんに、これは諸経に紺青色の馬というが、『大薩遮尼乾子受記経』にのみ白馬として居る。日に閻浮提洲を三度匝って疲れず王の念うままになって毎もその意に称うという(『正法念処経』二、『法集経』一)。『修行本起経』に紺馬宝は珠の鬣を具うとあるもこれだ。紺青色の馬はあり得べからぬようだが、これはもと欧亜諸国に広く行わるる白馬を尊ぶ風から出たらしい。白馬が尊ばるる理由は、多般だがその一を述べると、明の張芹の『備辺録』に、兵部尚書斉泰の白馬極めて駿し、靖難の役この馬人の目に立つとて墨を塗って遁げたが、馬の汗で墨が脱ちて露顕し捕われたとある通り、白馬は至って人眼を惹く。したがって軍中白馬を忌む。しかるにまた強いと定評ある輩がこれに乗ると、同じく敵の眼に付きやすくて戦わぬ内に退いてしまう。『英雄記』曰く、〈公孫瓚辺警を聞くごとに、すなわち色を厲くし気を作して、讎に赴くがごとし、かつて白馬に乗り、また白馬数十匹を揀び、騎射の士を選ぶ、号づけて白馬義従と為す、以て左右翼と為して、胡甚だこれを畏る〉。『常山紀談』に、勇士中村新兵衛、平生敵に識れ渡りいた猩々緋の羽織と唐冠の兜を人に与えて後戦いに臨み、敵多く殺したが、これまで彼の羽織と兜を見れば戦わずに遁げた敵勢が、中村を認めずこれを殺してしまった。敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を輝かし気を奪い勢いを撓ますの理を暁るべしと出づ。この理に由って白馬は王者猛将の標識に誂え向きの物ゆえ、いやしくも馬ある国には必ず白馬を尊ぶ。
『礼記』に春を東郊に迎うるに青馬七疋を用いるの、孟春の月天子蒼竜(青い馬)に乗るなどとあり。わが朝またこれに倣うて、正月七日二十一疋の白馬を引かれ、元の世祖は元日に一県ごとに八十一疋の白馬を上らしめ、その総数十万疋を越えたという。白馬節会の白馬を青馬と訓ますを古く不審しく思うた人少なからぬと見え、平兼盛が「ふる雪に色もかはらて曳くものを、たれ青馬と名け初けん」と詠んだ。しかるにその雪や白粉も、光線の工合で青く見えるから白を青と混じ呼んだらしい(「白馬節会について」参照)。さて高山雪上に映る物の影は紫に見える故、支那で濃紫色を雪青と名づく(一九〇六年二月二十二日の『ネーチュール』三六〇頁)。光線の工合でインド北方の雪山など紺青色に見えるはしばしば聞くところで、青と等しく紺青色も白と縁薄からねば、白馬の白を一層荘厳にせんとて紺青色の馬を想作したのだろう。タヴェルニェーなどの紀行に見ゆるは、インド人はしばしば象犀や馬を色々彩って壮観とする由。支那で麒麟は五彩を具うなどいうもこんな事から起ったらしく、かかる異色の畜類を見てその人為に出るを了らぬ人々は、必ず紺青色の馬も自然に存在すと信じたであろう。
仏典に載った馬譚を今一つ二つ挙げよう。『大荘厳経論』にいわく、ある国王多く好馬を養う。隣国王来り戦いしがその好馬多きを知り、とても勝てぬと諦め退去した。かの王惟えらく、敵国既に退いた上は馬が何の役にも立たぬ、何か別に人の助けになる事をさせにゃならぬと。すなわち勅して諸馬群を分ちて人々に与え、常に磨挽かしめた。その後多年経て隣国また来り侵す。すなわち馬どもを使うて戦わしむるに、馬は久しく磨挽きばかりに慣れいたので、旋り舞い行きあえて前進せず。捶てば打つほどいよいよ廻り歩き、戦争の間に合わなんだと。知れ切った道理を述べた詰まらぬ話のようだが、わが邦近来何かにつけて、こんな遣り方が少ないらしくないから、二千五百年前のイソップに生まれ還った気になり、馬譚を仮りて諷し置く。それからラウズ訳『仏本生譚』に、仏前生かつてビナレスの梵授王に輔相たり。王の性貪る。悍馬を飼いて大栗と名づく。北国の商人五百馬を伴れ来る。従前馬商来れば輔相これに馬の価を問い答うるままに仕払って買い取るを常例とした。しかるに王この遣り方を悦ばず、他の官人をしてまず馬商に馬価を問わしめ、さて大栗を放ちてその馬を咬ましめ、創つき弱った跡で価を減ぜしめた。商主困り切って輔相に話すと、輔相問う、汝の国許に大栗ほどの悍馬ありやと。馬商ちょうどその通りの悪馬ありて強齶と名づくと答う。そんなら次回来る時それを伴れて来いと教えた。その通りに伴れて来たのを窓より見て王大栗を放たしむると、馬商も強齶を放った。堅唾を呑んで見て居ると、二馬相逢いて傾蓋旧のごとしという塩梅に至って仲よく、互いに全身を舐り合った。王怪しんで輔相に尋ねると、同じ性の鳥は群団して飛び、この二馬は一和して住まる、これ両ながら荒くて癖が悪く、毎も絆を咬み切る、罪を同じゅうし過ちを斉しゅうする者は必ず仲がよいと答え、王を諫め商主と協議して適当の馬価を償わしめたとある。これも根っから面白からぬ話だが、これに関して、いささか面黒い事なきにしもあらず。皆人が知る通り、誰かが『徒然草』の好い注解本を塙検校方へ持ち行きこの文は何に拠る、この句は何より出づと、事細かに調べある様子を聞かすと、検校『徒然草』の作者自身はそれほど博く識って書いたでなかろうと笑った由。あたかも欧米に沙翁学を事とする人多く、わずか三十七篇の沙翁の戯曲の一字一言をも忽せにせず、飯を忘れ血を吐くまでその結構や由来を研究してやまず。雁が飛べば蝦蟆も飛びたがる。何の事とも分らぬなりに予も久しくこれに関して読み書きしおり、高名の人々から著述を送らるる事もあり。つらつら考うるに、かようの研究を幾ら続けたって三百年前に死んだ人が真実何と考え何に基づき何を欲してこの句かの語を筆したかは知るべからず。知り得るにしてからが何の益なし。だが古今東西情は兄弟なれば、かく博く雑多の事を取り入れて書いた物を、かくまで多くの学者が立ち替り入れ替り研究して出す物どもを読むは、取りも直さず古今東西の人情と世態の同異変遷を研究するに当るらしいので、相変らず遣り続け居る内には多少得るところなきにあらず。既に一昨年末アッケルマンてふ学者が『ロメオとジュリエ』の「一の火は他の火を滅す」なる語は、英国に火傷した指を火を近づけて火毒を吸い出さしむる民俗あり、蝮に咬まれた処へその蝮の肉を傅けて治すような同感療法じゃ。また「日は火を消す」てふ諺もある。沙翁はこれらに基づいて件の語を捻り出したものだろう。このほかにしかるべき本拠らしいものあらば告げられよと同好の士に広く問うたが、対うる者はなかったから予が答えたは、まず日月出でて爝火息まずと支那でいうのが西洋の「日は火を消す」と全反対で面白い。さて『桂林漫録』に日本武尊駿河の国で向火著けて夷を滅ぼしたまいし事を記して、『花鳥余情』に火の付きたるに此方よりまた火を付ければ向いの火は必ず消ゆるを向火という。そのごとく此方より腹を立て掛かれば人の腹は立ちやむものなりとあるを引き居る。今も熊野で山火事にわざと火を放って火を防ぐ法がある。予は沙翁がこれら日本の故事を聞き知ってかの語を作ったと思わぬが、同様の考案が万里を距てた人の脳裏に各の浮かみ出た証拠に聢と立つであろうと。かく言い送って後考うると、仏説の悍馬は悍馬を鎮めた話もやや似て居るを一緒に言いやらなんだが遺憾だ。
英語で蜻蜓を竜蠅(ドラゴン・フライ)と呼び、地方によりこの虫馬を螫すと信じてホールス・スチンガール(馬を螫すもの)と唱う。そは虻や蠅を吃いに馬厩に近づくを見て謬り言うのだろう。さて竜蠅とは何の意味の名かしばしば学者連へ問い合せたが答えられず。『説郛』三一にある『戊辰雑抄』に、昔大竜大湖の湄に蛻ぎ、その鱗甲より虫出で頃刻して蜻蜓の朱きに化る、人これを取れば瘧を病む、それより朱蜻蜓を竜甲とも竜孫ともいい敢えて傷わずと載せたを見て、支那でもこの物を竜に縁ありとするだけは解り、その形体威めしくやや竜に似て居るから竜より生じたという事と想いいた。その後一九一五年版ガスターの『羅馬尼鳥獣譚』十四章を覧るとこうあった。いわく、ルーマニア人は蜻蜓を魔の馬という、また多分竜の馬ともいうであろう、一名聖ジョージの馬ともいいこの菩薩は毒竜退治で名高い、この名の起りを尋ぬるに、往古上帝常に魔と争うたが、上帝は平和好き故出来るだけ魔を寛宥してその乞うままに物を与えた、しかるに魔悛めず物を乞い続けてやまず、上帝耐え兼ねて天人多く集め各々好馬を与えある朝早くこれに騎りて魔と戦わしめた。聖ジョージは無類の美馬に乗って先陣したが、急にその馬退却し出し、他の諸馬これに倣うて各退却してその後の馬を衝いた。爾時上帝高声で聖ジョージに、汝の馬は魔に魅された早く下りよと告げ、聖しかる上はこの馬魔の所有物たれと言いて放ちやると、三歩行くや否やたちまち虫と化って飛び去った、それからこの虫を魔の馬と名づく、蜻蜓の事だというと。ガスターこれを註していわく、このような伝説が西欧と英国にもあったに相違ない、そうなくては、竜の蠅てふ英語は何の訳か分らぬ、想うにこの神魔軍の物語に、以前は神軍より聖ジョージ、魔軍より毒竜進み出で大立廻りを演じ、両軍鳴りを鎮めて見物し竜ついに負けたてふ一節があって、その竜が蜻蜓と化ったとか、聖ジョージの馬は翼あって飛び得たとかあったのが、いずれも忘れ落されしまったものかと。熊楠惟うに、ルーマニア人も支那人と同じく蜻蜓の形を竜に似た者と見しより右様の咄も出来たので、林子平が日本橋下の水が英海峡の水と通うと言ったごとく、従来誰も解せなんだ蜻蜓の英国名の起原が東欧の俗譚を調べて甫めて釈り、支那の俚伝がその傍証に立つ、これだから一国一地方の事ばかり究むるだけではその一国一地方の事を明らめ得ぬ。