家康公が行水役の下女に産ませた上総介忠輝は有名な暴君だったが、その領地に無類の豪飲今猩々庄左衛門あり、忠輝海に漁して魚多く獲た余興に、臣民に酒を強いるに、この漁夫三、四斗飲んで酔わず、城へ伴い還り飲ましむるに六斗まで飲んで睡る。忠輝始終を見届け、かの小男不審とてその腹を剖くに一滴もなし。しかるにその両脇下に三寸ばかりの小瓶一つずつあり。砕かんとすれども鉄石ごとくで破れず、その口から三斗ずつ彼が飲んだ六斗の酒風味変らず出た。忠輝悦んで日本無双の重宝猩々瓶と名づけ身を放さず、この殿酒を好み、この瓶に酒を詰め、五日十日海川池に入りびたれど酒不足せず、今猩々の屍を懇に葬り弔い、親属へ金銀米を賜わった由(『古今武家盛衰記』一九)。これは『斉東野語』に出た野婆の腰間を剖いて印を得たというのと、大瓶猩々の謡に「あまたの猩々大瓶に上り、泉の口を取るとぞみえしが、涌き上り、涌き流れ、汲めども汲めども尽きせぬ泉」とあるを取り合せて造った譚らしい。
『野語』の文は〈野婆は南丹州に出づ、黄髪椎髻、裸形跣足、儼然として一媼のごときなり、群雌牡なく、山谷を上下すること飛猱(猴の一種)のごとし、腰より已下皮あり膝を蓋う、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む、かつて健夫のために殺さる、死するに腰間を手をもって護る、これを剖きて印方寸なるを得、瑩として蒼玉のごとし、文あり符篆に類するなり〉、これは腰下を皮で蓋い玉を護符または装飾として腰間に佩びた無下の蛮民を、猴様の獣と誤ったのだ。近時とても軍旅、労働、斎忌等の節一定期間男女別れて群居する民少なからず、古ギリシアやマレー半島や南米に女人国の話あるも全く無根でない(一八一九年リヨン板『レットル・エジフィアント』五巻四九八頁已下。ボーンス文庫本、フンボルト『南米旅行自談』二巻三九九頁已下。クリフォードの『イン・コート・エンド・カムポン』一七一頁已下)。さて野人の女が優種の男に幸せられんと望むは常時で、ギリシアの旧伝にアレキサンダー王の軍女人国に近付いた時、その女王三百人の娘子軍を率い急ぎ来って王の胤を孕みたいと切願し、聞き届けられて寵愛十三昼夜にわたった。鳥も通わぬ八丈が島へ本土の人が渡ると、天女の後胤てふ美女争うて迎え入れ、同棲慇懃し、その家の亭主は御婿入り忝なや、所においての面目たり、帰国までゆるゆるおわしませと快く暇乞いして他の在所へ行って年月を送ると(『北条五代記』五)。この事早く海外へ聞え、羨ませたと見え、島名を定かに書かねど一五八五(天正十三)年すなわち『五代記』記事の最末年より二十九年前ローマ出版、ソンドツァ師の『支那大強王国史』に、「日本を距る遠からず島あり、女人国と名づく、女のみ住んで善く弓矢を用ゆ、射るに便せんとて右の乳房を枯らす(古ギリシア女人国話の引き写しだ)、毎年某の月に日本より商船渡り、まず二人を女王に使わし船員の数を告ぐれば、王何の日に一同上陸せよと命ず、当日に及び、女王船員と同数の婦女をして各符標を記せる履一足を持たせて浜辺に趣き、乱雑に打ち捨て返らしむ。さて男ども上陸して各手当り次第に履を穿くと、女ども来って自分の符標ある履はいた男を引っ張り行く、醜婦が美男に配し女王が極悪の下郎に当るもかれこれ言わぬ定めだ。かくて女王が勅定した月数が過ぎると「別れの風かよ、さて恨めしや、いつまた遇うやら遇わぬやら」で銘々男の住所姓名を書いて渡し、涙ながらに船は出て行く帆掛けて走る、さて情けの種を宿した場合に生まれた子が女なら島へ留めて跡目相続、男だったら父の在所へ送致する(ここギリシア伝説混入)」というが甚だ疑わしい。しかしこの話をしたは正しき宗教家で、この二年内にかの島へ往きその女人に接した輩から親しく聞いたと言う。ただし日本に居る天主僧の書信に一向見えぬからどうもますます疑わしいとある。世に丸の嘘はないもので、加藤咄堂君の『日本風俗志』中巻に、『伊豆日記』を引いていわく、八丈の島人女を恋うても物書かねば文贈らず、小さく作った草履を色々の染糸を添えたる紙にて包み贈る。女その心に従わんと思えば取り収め、従わざればそのまま戻す云々。女童部の物語にする。女護島へ男渡らば草履を数々出して男の穿きたるを印しに妻に定むという風俗の残れるにやと、ドウモ女人国へ行きたくなって何を論じ掛けたか忘れました。エーとそれアノ何じゃそれからまた、十五世紀にアジア諸国を巡った露人ニキチンの紀行に多分交趾辺と思わるマチエンてふ地を記し、そこにも似た婦人、昼は夫と臥せど夜は外国男を買うた話が見える。これらの例を考え合すと〈野婆群雌牡なく、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む〉ちゅう支那説は虚談ならずと分る。日本で備前の三村家親へ山婆が美女に化けて通い、ついに斬られた話あれど負い去って強求すると聞かぬ。
『和漢三才図会』にいわく、〈『和名抄』、猨、獼猴以て一物と為す、それ訛り伝えて、猿字を用いて総名と為す、猨猿同字〉と。誠にさようだがこの誤り『和名抄』に始まらず。『日本紀』既に猿田彦、猿女君など猴と書くべきを猿また猨と書いた。『嬉遊笑覧』に言える通り鴨はアヒルだが、カモを鳬と書かず鴨と書き、近くはタヌキから出たタナテ、またよくこの獣を形容したラクーン・ドグなる英語があるに今もバッジャー(獾、アナクマに当る)てふ誤訳を踏襲するに斉しく、今となっては如何ともするなし。猿英語でギッボン、また支那音そのまま取ってユエン。黒猩、ゴリラ、猩々に次いで人に近い猴で歯の形成はこの三者よりも一番人に近い。手が非常に長いから手長猿といい、また猿猴の字音で呼ばる。その種一ならず、東南アジアと近島に産す。手を交互左右に伸ばして樹枝を捉え進み移る状、ちょうど一の臂が縮んで他の臂が伸びる方へ通うと見えるから、猿は臂を通わすてふ旧説あり、一臂長く一臂短い画が多い。『膝栗毛』に「拾うたと思ひし銭は猿が餅、右から左の酒に取られた」この狂歌は通臂の意を詠んだのだ。
『本草綱目』に、〈猿初生皆黒し、而して雌は老に至って毛色転じて黄と為る、その勢を潰し去れば、すなわち雄を転じて雌と為る、ついに黒者と交わりて孕む〉。これは瓊州猿の雌を飼いしに成熟期に及び黒から灰茶色に変わった(『大英百科全書』十一)というから推すと、最初雌雄ともに黒いが後に雌が変色するより変成女子と信じたり、『列子』、〈貐変じて猨と為る〉、『荘子』、〈獱狙猨を以て雌と為る〉と雌雄を異種に見立てたのだ。猿は臂長く膂力に富み樹枝を揺って強く弾かせ飛び廻る。学者これを鳥中の燕に比したほど軽捷で、『呂覧』に養由基矢を放たざるに、猨、樹を擁して号び、『呉越春秋』に越処女が杖を挙げて白猨に打ち中てたなどあるは、その妙技なみ大抵の事でない絶好の叙述と知れ、予も親しく聴いたが、猿が飛ぶ時ホーホーと叫ぶ声は大したもので耳が病み出す。寂しい処で通宵これを聴く趣はとてもわが邦の猴鳴の及ぶところでなく、〈峡中猿鳴く至って清し、諸山谷その響きを伝え、冷々として絶えず、行者これを歌いて曰く、巴東三峡猿鳴く悲し、猿鳴く三声涙衣を霑す〉とはよく作った。「深き夜のみ山隠れのとのゐ猿ひとり音なふ声の淋しさ」などわが邦の名歌は多く支那の猿の詩に倣うたものじゃ。
猿は樹を飛び廻る事至って捷く、夫婦と餓鬼ばかり棲んで群を成さずすこぶる捕えがたい。『琅邪代酔篇』三八に、〈横州猿を捕えて入貢す、故に打ち捕るを事とするは皆南郷の人、旬日村老一人来り告ぐ、三百余人合囲して一小黒猿を独嶺上に得、もし二百人を益し、ことごとく嶺木を伐らば、すなわち猿を獲べしと、その請のごとくす、三日の後一猿を舁ぎて至る〉。水を欲しい時のみ地へ下り直立して歩む。本邦の猴など山野にあれば皆伏行し、飼って教えねば立って行かず、猩々なども身を斜めにして躄り歩く。故に姿勢からいえば猿は一番人間に近くその脚とても画にかいたほど短からず、立派に胴より長い。しかるにその臂が非凡に長いので脚がいと短く見える。
『七頌堂識小録』に、猿を貢する者、その傍に獼猴数十を聚め跳ね喧しからしむ。その言に、猿は人の泣き声を聞くと腸絶えて死ぬからこうして紛らかすと、〈猿声悲し、故に峡中裳を沾すの謡あり、これすなわち人の声の悲しきを畏る、異なるかな〉とあるが何の異な事があるものか、人間でも人の罪よりまず自分を検挙せにゃならぬような官吏が滔々皆これだ。猿は人に近付かぬ故その天然の性行を睹た学者は少ない。したがって全然信認は如何だが、昔から永々その産地に住んだ支那人の説は研究の好き資料だ。例せば『本草啓蒙』に引いた『典籍便覧』にいわく、〈猿性静にして仁、貪食せず、かつ多寿、臂長く好くその気を引くを以てなり、その居相愛し、食相禁ず〉と節米の心掛けを自得せる故、馬鈴薯料理の試食会勧誘も無用で、〈行くに列あり、飲むに序あり、難あればすなわちその柔弱者を内にして、蔬を践まず、山に小草木あれば、必ず環りて行き、以てその植を遂ぐ、猴はことごとくこれに反す〉。これなら桃中軒の教化も危険思想の心配も要らぬ。誠に以てお猴目出たやな。
支那の本草書中最も難解たる平猴また風母、風生獣、風狸というがある。唐の陳蔵器説に風狸邕州以南に生じ、兎に似て短く、高樹上に棲息し、風を候うて吹かれて他樹に至りその果を食う。その尿乳のごとく甚だ得がたし、諸風を治すと。明の李時珍諸書を考纂していわく、その獣嶺南および蜀西山林中に生ず、状は猿猴のごとくで小さし、目赤く尾短くてなきごとく青黄にして黒し、昼は動かず、夜は風に因って甚捷く騰躍し巌を越え樹を過ぎて鳥の飛ぶごとし、人を見れば羞じて叩頭憐みを乞う態のごとし、これを打てばたちまち死す、口を以て風に向えば復活す、その脳を破りその骨を砕けばすなわち死すと。