2 無理心中
春といえば……それも四月頃の一事件だった……と私は思い出す。
風邪をひいて寝ていた私は、火点し頃になってようやく目をさました。周囲を見廻すと人がいないし、外に出て見ても変に往来は人通りがなく、何処の家も大変静粛であった。
近所に何事か起こったらしい――すぐそう感じられる位イヤに静かだった。
すると、ある者がそそくさと向こうから帰って来たので、私はその人を捉えて訊いた。
『何処かで何事かあった?』
『S楼で心中があったんだ、無理心中が』
『男も女も死んじゃった?』
『男は死にもどうもしやしない、床の中へ潜りこんで小さくなって慄えてやがった』
『女の方は? 小父さん……』
『女の方は――ったって、首も何もくっついちゃあいないといって宣いだろう、ぼんのくぼの甘皮一枚で僅かに胴と続いてるだけの話だ……』
『………………………………』
『女の方を殺っちゃうと、奴ぁ急に恐くなっちゃいやがったんだな』
『へええ、随分よく切れるものね……』
『今日はまた運悪く、S楼じゃ今朝っから研屋を招んで料理場の包丁を皆残らず研がしといたんだとさ。すると夕方になって、野郎が台所へ水飲みに来たから、皆変だとは思ったが、その時鮪包丁が一本見えなくなった事は誰も気がつかなかったんだ。それで殺ったんだな、それに奴は他の遊郭でも無理心中をし損なった癖のある男で、楼のものも皆注意しぬいていたんだがな、ナニその男は商売も何もありゃあしないんだ、先に牛乳配達なんかした事のある男だって話だが……』
私の聴き得た事はそれだけだった。
また、ある娼妓は、夜半に眼を覚ますと、妙な物音を聴いた。
ブツリ、ブツリ、という音だ、はて何の音だろう――からだ中の神経をそばだてて聴いた。畳に何か通すような音だ!
気丈なその女は、すぐに何か直感したが、それが生命の問題であると知ると、自分で自分の心を圧し沈めて、今夢から覚めた風をして身動きをした。
そして落ち着き払って、枕頭の煙草盆をひきよせて、一服ふかして、
『あんたまだ起きてたの、私は咽喉が渇いてめが覚めたんだけれど、あんたもお茶を飲みたかないか、いま階下へいって持って来てあげよう』
その女は努めて落ちつき払っていいながらも、客に警戒しいしい床を脱け出した。
何気ない風を粧って階段を下りはしたが、下へ降りると一時に気が狂ったように大声で、
『大変です、大変です、救けて下さい!』
と怒鳴りながら楼中のものを起こした。
その女は幸いにも危うく死の道連れをまぬがれる事ができた。
後できくと、ブツリ、ブツリという音は、客が愈々心中を実行する場合に、女を篭の虫のように遁さない用心から、蚊帳の周囲を畳の目へ、釘で止めてゆく音だったという事である。