「どちらの方へ、はあ炭坑へお出でになりましたか」
主人は私へ挨拶する。私は帳場の前へ一寸坐る。此の間のお婆さんはまだ帰らなかつたと見えて帳場の側に坐つて居た。お婆さんは自分の前の煙草盆を私の方へ移して軽く時儀をした。
「大分浜らしくなつて来ましたね」
私も主人へ挨拶した。
「えゝこの塩梅ぢや此からよからうと思ふんですがね、これで少し続いてくれなくちや困りますからね」
「馬鹿に臭いですな」
と私がいつた時主人は机の上に披いてあつた帳簿をはたと閉ぢて
「今も其噺をした所ですが、此は鯨の肉ですがね、どうも日数がたつて居ますからすつかり腐つて居るんです。そこらに浮いて居たのを引つ張つて来たんですが肥料ですな」
主人はかういつて更に
「どうぞまあ、お二階で御ゆつくり」
といつた。又た威勢のいゝ挂声がして松魚船がはひつて来た。私はつと店先へ立つて松魚の人だかりを見た。
「此の臭が厭だつていふんだからね」
お婆さんが主人に向つていつてるのを聞いた。
隣座敷はひつそりとして居る。女中が茶を持つて来たので、私は黙つて隣の座敷を指して肘を頭へあてゝ、女は寝て居るかと聞いた。
「しよつちふなんですよ、それに今日はね、此の臭が厭だつてね、吐いたんですよ。本当に此の臭は厭ですわね」
女中はこつそりとかういつた。私はふと女が懐胎して居るんぢやないかと思つた。さう思ふと酷く人に身を避けて居るやうなのが思ひ合される。
「此ぢやないか」
と私は手で腹を描いて女中に聞いた。女中は冷かに微笑しながら
「そんなこといふと旦那に叱られますがね、本当にをかしんですよ、それだがまだ見た処ぢや分りませんわね」
私へすりよつて小声でいつた。
お婆さんが階子段を昇つて来たので女中は慌てゝ行つて畢つた。
「只今はどうも」
とお婆さんは私に挨拶した。隣の座敷ではお婆さんの低い声が聞えた。
「どうだね、お前まだいけないかい。それぢやあつちの都合もあるから私は行くからね……」
あとの方は能く聞えなかつた。更に低く女の声がしたやうであつたがそれはちつとも分らなかつた。やがてお婆さんは小さな包を持つて出た。
「またお目にかゝります」
とお婆さんは私に挨拶して行つた。私は障子を開けて入江を見て居るとやがてお婆さんの車が威勢よくがら/\と走つて行つた。
其夜私は目が冴えてまぢ/\と雑念に駆られたのであつた。隣座敷の女が懐胎して居ると気がついた時私はおいよさんに対する心配が募つて来た。手紙にあるのが本当であればおいよさんの身体にはもう変化が起りかける時期である。おいよさんも隣座敷の女のやうに陰気にならねばならぬであらう。平生から虚弱な身体ではましてさうなければなるまい。おいよさんは正月に行つた時も懐胎して居た。さうして人知れず恐ろしい罪を犯して身軽になつた。ほつと息をつく間もなく又懐胎して畢つたのである。私等はよく/\運も悪いのであつた。おいよさんはもう此度は身体が恐ろしくてそんなことは出来ないというて独で苦しんで居るのである。隣座敷の女はどんな事情が纏綿して居るであらうか。おいよさんのやうな境遇に在るのではなからうかと私には思はれてならぬ。さうしておいよさんのしたやうな罪を犯す念慮もなく又さういふ方法も知らず只沈んで居るのであらう。それを思ふと私は窃に愧ぢ入らねばならぬ。然しおいよさんの心持になつて見ると私は一概においよさんを貶して畢ふ気にはなれぬ。おいよさんは夫を嫌つて遁げて来たのである。それが一家の事情から今では其夫の村に近く住まねばならなくなつた。懐胎してはもう私の家には居られないのである。そこはどういふことにしても体面上私の家ではおいよさんを置く訳に行かないからである。さうかといつておいよさんは耻を曝して嫌つた夫の近くに居ることが出来ようか。さうして思案の末に嘗て自分が知合であつたといふ女を訪ねる気になつたのである。おいよさんはそれつ切り私の家に来なかつたならばもう心配を招くことはなかつたのである。然し私も喚んで見たかつたし、おいよさんも来ることが厭でなかつたばかりに更に又苦労の種が播かれたのである。おいよさんは私の冷かな情に弄ばれたのである。私は到底陋劣である。私の母は能く穿鑿して見ねば容易な判断は下せないといつたが私はどうしてもおいよさんを信じて私も亦十分に苦んでやらなければおいよさんに済まぬ。私はいつそおいよさんが逢ひたいといつた場所で逢つてやればよかつたとかういふ塩梅に私は此の夜いつになくおいよさんに同情が湧いた。私は港へ来てからもおいよさんとの交渉がどうなつたか思案しない日はなかつた。私の鬱して居た心は余計に雨を厭うたのであつた。私はおいよさんの身の始末に思ひ到ると隣座敷の女に対してどういふものか微かな恐怖心を抱くやうになつた。