(附記)支那に於ては、元明以後、肖像畫は益〻形式に流れ、仕女の名匠として明代に仇英の如きあるも、肖像畫に精采を賦與する程の感化を及ぼさず、清朝の禹之鼎の如き、肖像を善くすといはれしも、要するに仇英一派の後勁たるに過ぎず。但だ乾隆嘉慶以後、思想の變化と共に仕女の名家輩出して、遂に改琦の如き新しき生氣ある仕女畫を生ずるに至れるが、此時代さへも肖像畫は遂に復活するに至らざりき。其の畫法の如きも、元代の王繹が寫像訣なる者を出せしより、一定の範疇に陷りて、其の圈外に跳出する者なし。故に元代に於ても、肖像畫にも南畫の風格を移入せし少數の試みありしも、遂に山水畫の如く發展するに至らず、隨つて我國の畫風にも影響することなかりしなり。
(大正九年十二月史學地理學同攻會講演)