喜「ヘエお梅是を何処かへ入れて置きな」
武「ポッチリ酒に割って飲むのだ、私は少し取急ぐで、是を親類共に持って行ってやらんければならん、又此の頃に来る」
喜「只今抜きが直きに参りますが…左様ですか…御迷惑で、誠に失礼を致して恐入ります」
武「大きに厄介で有った、御家内誠に世話に成りました」
と丁寧にお武家が家内にも挨拶をして落着き払って、チャラリ/\雪駄を穿いて行く後影を木戸の処を曲るまで見送って、
喜「有難うございました、どうぞ殿様此の後も寄ってお呉んなさい、へえへえ有難う、おい嬶ア、大切に取って置きな、御三家御三卿が喰うてえんだが、旨くも何共ねえものを飲むんだな、香の物の好いのを出して呉れ、酒家は沢山の肴は要らない、香の物の好いのが有ればそれで沢山だ、併し酷い酒を飲せやアがったなあゝ痛え、変な酒だな、おいお梅一寸来て呉んな、ウ、ウ、腹が痛えから一寸来て呉れ」
梅「極りを云ってるよ、お前飲み過だよ、疝癪に障るんだよ」
喜「彼ン畜生変な物を飲ましやアがって、横ッ腹を抉るように、鳩尾骨を穿るような、ウヽ、あゝ痛え」
梅「何うしたんだよ」
喜「アヽ痛え、ア痛たゝゝ、お、お梅、脊中を押して呉れ、脊中じゃアねえ、肩の処を横ッ腹を」
梅「何処だよ」
喜「其処じゃアねえ、此方の足の爪先だ、膝だ、あゝ肩だ」
ともがいて居ます、恐ろしいもので、節々の痛みが夥しく毛穴が弥立って、五臓六腑悩乱致し、ウーンと立上るから女房は驚いて居ると、喜助は苦しみながら台所へ這い出してガーと血の塊を吐いて身を震わして居る。お梅は恟りして、
梅「家の良人が何うか為ましたから誰方か来て下さいよう、總助さん/\」
總「何うした/\、きまりだ、吐血だ、だから酒を飲んじゃア宜かねえと云うのだ、何う云うものだこれ喜助確りしろ、喜助/\」
喜「ウーン」
それなりに相成りました。
總「何う云う訳だ」
と云うとお梅は涙ながら、これ/\斯う云う訳で御酒を割って飲まなければ宜けないと云うのを家の良人が直接に飲みましたから身体に障ったのでございましょう。
總「夫は怪しからん事だ、何しても御検視を願わなければならん」
と云うので、御検視到来に相成りお医者も立会って調べると、是は全く酒の毒だが、尋常の死にようではない、余程効能の強い毒酒ではないかと、依田豊前守様の白洲へ持出したが御奉行が其の酒を段々お調べに成り、医者を立会して見ると、一ト通りならん処の毒薬で、何でも是は大名旗下の中に謀叛之れ有る者、お家を覆さんとする者が、毒酒を試しに来たに相違ないと云うので、女房に其の武家の顔を知って居るかと尋ねると、これ/\斯う云う姿の武家体と申し上げたので、人相書を作り八方十方へお手配りに成り箱根の前まで手が廻る事に成ったが、知れません。お梅は貞節な婦人ゆえ泣いてばかり居ります。里方で引取ろうと云うと、
梅「私はお願いだから、あの武士が毒を試しに来て、始めから何うも様子が訝しいと思ったが、顔を知って居るのは私ばかり、此の長谷川町を再び通る気遣いは有るまいから、人の盛る処へ行ってあの侍を見付けて、亭主の敵を強いお上に取って貰わなければならないから、何うぞ私を吉原へ女郎に売って下さい、格子先へ立つ人の中にあの武家に似た人が有ったら騙して捕まえて亭主の敵を討つ」
と云い張り、幾ら留めても肯かず遂に江戸町一丁目辨天屋の抱えと成って名を紅梅と改め、彼の武士の行方を探すと云う亭主の敵討の端緒でございます。