蟋蟀の箱
今、秋となって、私の画室の周囲にあらゆる虫が鳴いている。その中には蟋蟀も鳴いている。この蟋蟀という奴が私に辛い思いをさせた事があるのだ。私は蟋蟀の声を聴くときっとそれを思い出すのである。
私が小学校へ通っている時分だった。私の家のあった堺筋は、今こそ、上海位いの騒々しさとなってしまったが、その頃はまだ大阪に電車さえもなかった時代だ。ちょっと裏手へ入るとかなりの草むらや空地が沢山にあったものだ。私の家の向いにも土蔵と土蔵との間に湿っぽい空地があって、陽気不足の情けない雑草が茂り、石ころと瓦のかけらが、ごろごろと積まれてあった。
秋になると、そこには蟋蟀が鳴くのであった。私は学校から帰ると私の友達と共にこの空地へ這入ってじめじめした石ころや瓦を持ち上げて、その下から飛出す蟋蟀を捉えるのが何よりの楽しみだった。
初めは石鹸の空箱へ雑草を入れ、その中へ捉えた蟋蟀をつめ込んだ。私たちは学校から帰るとその箱をそっとあけて見るのだ。すると、萎びた雑草の中から蟋蟀のつるつるした頭と髭が動いているのを見て、何んともいえず可愛くて堪らなかった。
私は何んとかして、も少しいい住宅を彼らのために作ってやりたいと思い、私は手頃なボール箱を持ち出して、その中をあたかもビルディングの如く、厚紙で五階に仕切り、沢山の部屋を作り階段をつけ、各部屋への通路には勿論入口を設け、窓を作り、空気の流通もよくしてやった。然る後、私は大切の蟋蟀を悉くそのビルディングの中へ収容して見た。すると二階で髭を動かしている奴があり、三階の窓から頭を出している奴がおり、五階の入口からお尻の毛を出している奴がいたりするのであった。
私は彼らを無理矢理に階段を昇らせて見たりして楽しんだ。
夜になると、ビルディングの彼らはそろそろ鳴き出すのであったが、どうも市中で蟋蟀が鳴くのは、多く下水道とか、空家の庭とか、土蔵の裏とかに限るようだから、私の座敷は妙に空家臭くなるのであった。父はそれを厭がって早く逃がしてしまえといった。
父はかなりの虫好きで、秋になると、松虫、鈴虫、といったものを買って来て、上等の籠へ入れて楽しんでいたが、どうも私の蟋蟀には全く理解がなかった。むしろ不吉なものだと思っているらしかった。
ところで私の作ったビルディングは、どうも虫の生活には不適当だと見えて、日々かなりの死者を出すのであった。
これではならぬと思い、私は考えた末、これを私の前栽へ解放してやろうと思った。前栽には大きな石が積み重ねてあり、その上には稲荷様が祀ってあった。私はこの石崖こそは自然のビルディングだと思ったから、私は早速彼らをこの石崖へ撒き散らしてしまったのであった。二、三十匹は確かにいたはずだ。
その夜、彼らは一斉に、元気に、鳴き出した。
すると、肝腎の鈴虫や、朝すずの声は蹴落されてしまった上、前栽は完全に空家の感じを出してしまった。でも私は、内心かなり得意なつもりで寝たものだ。ところへ父が帰って来た。そしてなぜこう一時に蟋蟀が鳴き出したのかといって大そう驚いた。母も察する処、楢重の所業だとにらんだらしい。多分昼の間に逃がしたんだすやろといった。私は忽ち恐縮を感じたが、もう如何んともする術はなかった。仕方がないので寝たふりをしていると、父は一人で庭へカンテラを持ち出して、石崖の間を狙っているのだ。弱った事になって来たと思っていると果して、私はゆり起された。楢重、ちょっと来いお前やろ、さあこの虫を皆退治てしまえといい渡された。ねむい眼で石崖の穴を覗いて見たが何も見えなかったが、なるほど、合唱隊は随分騒いでいる。
私はそれからおおよそ一週間というもの、毎晩の如く石崖の前へ立たせられた。私は棒を握ってカンテラの火で虫を呼びよせて見た。そして石崖の間に私の愛する彼らのツルツル頭を発見すると同時に、私は棒でたたき潰さねばならなかった。
だが、このビルディングの奥深く這入り込んだ蟋蟀は容易に出て来てはくれなかった。喧ましゅうて寝られんやないかと父が怒る度びに、私は全く、蟋蟀が自殺をしてくれたらいいと思った。結局、石崖を取毀たない限りは完全な退治は出来難い事になってしまった。
私は、以来、蟋蟀の声を聴く度びにその時の情なさを思い出す。そしてその頃の堺筋の情景を思い出す。あの家も既に売払ってから十年近くなる。今は何かハイカラな洋館と化けてしまっている。勿論、あの前栽も石崖もなくなったであろう。しかし、あの蟋蟀の子孫は、まだ、裏の下水のあたりで鳴いているにちがいないと思う。