白光と毒素
女給はクリーム入れましょうかとたずねる。どろどろの珈琲が飲みたい日は入れてくれというし、甘ったるいすべてが厭な日はいらないといって断る。考えてみるにどろどろしたクリームを要求する日は元気で心も善良で、どうかすると少しおめでたいけれども、砂糖もなきにがい珈琲を好く日はどうも少し心がひん曲っていることが多いようである。
人間もだんだんどろどろしたものが厭になり、何事もケチがつけてみたくなり、何事にも賛成できなくなり、飛びつく食欲を覚えず、女人の顔を真正面から厚かましく眺めるような年配となってくることは淋しいことだ。
やはり人間はカツレツと甘い珈琲が好きで、なかば霞んでいる方がかわい気はある。あまりに冴えた女性はどうも男達からの評判はよろしくないことが多い。
私自身も近ごろだんだん霞の煙幕の向こう側が意地悪く見えすいて来たりして、なるほどこれかと思い当たるようになって来たことは気の毒だ。でも老人がいつまでも甘ったるくても迷惑なことである。私などは近頃、ついうっかりと美人の鼻の穴の黒き汚れや皺の数とその方向に見惚れたり、その皺によって運勢までも観破しかねまじき眼光の輝きをわれながら感じて来た。
でも、この地球の上はありがたいことにも年に一回は必ずこれは女給ではなく、かの木花開耶姫が一匙のクリームを天上からそそぎかけると、たちまちにして地上の空気はどろどろとなり、甘ったるく、なまぬるく、都会の夕暮をつつみ、あるいは六甲の連山をかすめる。このクリームの毒素は私にも影響する。何かこうじっとしていては罰が当たりそうで、といって一体何をどうすればよいか見当がつかない、といった心もちだ。春過ぎた奴でさえこれだ。今春の最中にいて、この乳色のどろどろの珈琲を飲み込んでは、まったく若き男女は一体どうするのか、私もまた同情に堪えない。
四季を通じて女性はこの世に存在するが、春はまったくこの毒素にあたったものが毒にあたったものを眺めるのだから、気狂いが気狂いを見るのと同じく、まったく女の優劣も美麗も判然と区別する能力を失い勝ちだ。ただ春のそして若き女性からは燦爛たる白光が立ち上り、ただわれわれの眼はぐらぐらとくらむだけである。まったく男達が春における女性を見ると眼はただ二個の無力なレンズであるに過ぎない。
だからわれわれの若き時代の恋愛の手紙の一節を思い出してみるがいい。おお紅薔薇の君よ、谷間の白百合よ、私の女神よ救って下さいと嘆願したりしている。ちっともそれが百合らしくも薔薇でもないのに。
だが、そう見えるところに春の毒素の面白さがあるのだ。まったくもって、恥しいことを春には口走るが、それは幸福なたわごととしてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである。
ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。今でも春になるとその叫び声とその時の悪寒を思い出す。
とにかく山、河、草木、池、都会、ごみ溜、ビルディングの窓という窓をことごとくこのクリームが包んでしまうと、男の眼はガラスと変じ、若き女性からは悩ましき白光が立ち上る。
舞台では春の踊りやレヴューの足の観兵式である。白光と毒素は充満する。霞を失いつつあるわれわれも、年に一度は開耶姫の珈琲を遠慮なく飲んでおきましょう。