さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手に把りて、右手には黄白二面の扇子を開き、やと声発けて交互に投げ上ぐれば、露を争う蝶一双、縦横上下に逐いつ、逐われつ、雫も滴さず翼も息めず、太夫の手にも住まらで、空に文織る練磨の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声高く喚わりつつ、外面の幕を引き揚げたるとき、演芸中の太夫はふと外の方に眼を遣りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
口上は狼狽して走り寄りぬ。見物はその為損じをどっと囃しぬ。太夫は受け住めたる扇を手にしたるまま、その瞳をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
口上はいよいよ狼狽して、為ん方を知らざりき。見物は呆れ果てて息を斂め、満場斉しく頭を回らして太夫の挙動を打ち瞶れり。
白糸は群れいる客を推し排け、掻き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
あわただしく木戸口に走り出で、項を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼あり。
何事や起こりたると、見物は白糸の踵より、どろどろと乱れ出ずる喧擾に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面を見るを得たり。渠は色白く瀟洒なりき。
「おや、違ってた!」
かく独語ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。
三
夜はすでに十一時に近づきぬ。磧は凄涼として一箇の人影を見ず、天高く、露気ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
熱鬧を極めたりし露店はことごとく形を斂めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩るる燈火は、かすかに宵のほどの名残を留めつ。河は長く流れて、向山の松風静かに度る処、天神橋の欄干に靠れて、うとうとと交睫む漢子あり。
渠は山に倚り、水に臨み、清風を担い、明月を戴き、了然たる一身、蕭然たる四境、自然の清福を占領して、いと心地よげに見えたりき。
折から磧の小屋より顕われたる婀娜者あり。紺絞りの首抜きの浴衣を着て、赤毛布を引き絡い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄の爪頭に戞々と礫を蹴遣りつつ、流れに沿いて逍遥いたりしが、瑠璃色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
川風はさっと渠の鬢を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
しかと毛布を絡いて、渠はあたりを眗しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色なもんだ」
渠は再び徐々として歩を移せり。
この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠を取らずして、小屋を家とせるもの寡なからず。白糸も然なり。
やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄の音は天地の寂黙を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛さに、なおしいて響かせつつ、橋の央近く来たれるとき、やにわに左手を抗げてその高髷を攫み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
暴々しく引き解きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
かくて白糸は水を聴き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾として露下月前に快眠せる漢子は、数歩のうちにありて齁を立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
囃子方に新という者あり。宵より出でていまだ小屋に還らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を覰きたり。
新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝ること千の新なるべき異常の面魂なりき。
その眉は長くこまやかに、睡れる眸子も凛如として、正しく結びたる脣は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽なるを語れり。漆のごとき髪はやや生いて、広き額に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦げり。
つくづく視めたりし白糸はたちまち色を作して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
渠は跫音を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
恍惚として瞳を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡いし毛布を脱ぎて被せ懸けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡せり。
白糸は欄干に腰を憩めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝のあたりをはたと拊てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚まして、叭まじりに、
「ああ、寝た。もう何時か知らん」
思い寄らざりしわがかたわらに媚めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
馭者は愕然として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ありて、深夜の寒を護れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
白糸は微笑を含みて、呆れたる馭者の面を視つつ、
「夜露に打たれると体の毒ですよ」
馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌よう」
いよいよ呆れたる馭者は少しく身を退りて、仮初ながら、狐狸変化のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺めたる渠の眼色は、顰める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
馭者はいたく驚けり。月下の美人生面にしてわが名を識る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所で!」
袖を掩いて白糸は嫣然一笑せり。
馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首を正して言えり。
「抱いた記憶はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走をして、石動手前からおまえさんに抱かれて、馬上の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手を拍ちて、馭者は大声を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
馭者は脣辺に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
二人は相見て笑いぬ。ときに数杵の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日、どうしてお出でなすったの?」
四顧寥廓として、ただ山水と明月とあるのみ。飂戻たる天風はおもむろに馭者の毛布を飄せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄に見遣りぬ。
「いや、それはともかくも、話説をせんけりゃ解らん」
馭者は懐裡を捜りて、油紙の蒲簀莨入れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
馭者は言下に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅ってます」
「いいえ、結構」
白糸は一吃を試みぬ。はたしてその言のごとく、煙管は不快き脂の音のみして、煙の通うこと縷よりわずかなり。
「なるほどこれは壅ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要るのだ」
「ばかにしないねえ」
美人は紙縷を撚りて、煙管を通し、溝泥のごとき脂に面を皺めて、
「こら! 御覧な、無性だねえ。おまえさん寡夫かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶だ。でも、情婦の一人や半分はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
渠はこの問答を忌まわしげに空嘯きぬ。
「おまえさんの壮年で、独身で、情婦がないなんて、ほんとに男子の恥辱だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
馭者は傲然として、
「そんなものは要らんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服戴こう」
白糸はまず二服を吃して、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅ったときは、いつでも持ってお出でなさい」
大口開いて馭者は心快げに笑えり。白糸は再び煙管を仮りて、のどかに烟を吹きつつ、
「今の顛末というのを聞かしてくださいな」
馭者は頷きて、立てりし態を変えて、斜めに欄干に倚り、
「あのとき、あんな乱暴を行って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
美人は眉を昂げて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩を仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」