夙て硯友社の年代記を作つて見やうと云ふ考を有つて居るのでありますが、書いた物は散佚して了ふし、或は記憶から消え去つて了つた事実などが多い為に、迚も自分一人で筆を執るのでは、十分な事を書く訳には行かんのでありますから、其の当時往来して居つた人達に問合せて、各方面から事実を挙げなければ、沿革と云ふべき者を書く事は出来ません、
其に就て不便な事は、其昔朝夕に往来して文章を見せ合つた仲間の大半は、始から文章を以て身を立る志の人でなかつたから、今日では実業家に成つて居るのも有れば工学家に成つて居るのも有る、其他裁判官も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中には行方不明なのも有る、物故したのも有る、で、銘々業が違ふからして自から疎遠に成る、長い月日には四方に散じて了つて、此方も会ふのが億劫で、いつか/\と思ひながら、今だに着手もせずに居ると云ふ始末です、今日お話を為るのは些の荒筋で、年月などは別して記憶して居らんのですから、随分私の思違ひも多からうと思ひます、其は他日善く正します、
抑も硯友社の起つたに就ては、私が山田美妙君(其頃別号を樵耕蛙船と云ひました)と懇意に成つたのが、其の動機でありますから、一寸其の交際の大要を申上げて置く必要が有る、明治十五年の頃でありましたか東京府の構内に第二中学と云ふのが在りました、一ツ橋内の第一中学に対して第二と云つたので、それが私が入学した時に、私より二級上に山田武太郎なる少年が居つたのですが、此少年は其の級中の年少者で在りながら、漢文でも、国文でも、和歌でも、詩でも、戯作でも、字も善く書いたし、画も少しは遣ると云つたやうな多芸の才子で、学課も中以上の成績であつたのは、校中評判の少年でした、私は十四五の時分はなか/\の暴れ者で、課業の時間を迯げては運動場へ出て、瓦廻しを遣る、鞦韆飛を遣る、石ぶつけでも、相撲でも撃剣の真似でも、悪作劇は何でも好でした、(尤も唯今でも余り嫌ひの方ではない)然るに山田は極温厚で、運動場へ出て来ても我々の仲間に入つた事などは無い、超然として独り静に散歩して居ると云つたやうな風で、今考へて見ると、成程年少詩人と云つた態度がありましたよ、其が甚麼機で相近く事に成つたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立つたのです、
尤も段々話合つて見ると、五六才の時分には同じ長屋の一軒置いた隣同士で、何でも一緒に遊んだ事も有つたらしいので、那様事から一層親密に成つて、帰路も同じでありましたから連立つても帰る、家へ尋ねて行く、他も来る、そこで学校外の交を結ぶやうに成つたのです、
私は程無く右の中学を出て、芝の愛宕下町に在つた、大学予備門の受験科専門の三田英学校と云ふのに転学しました、それから大学予備門に入つて二年経つ迄、山田とは音信不通の状で居たのです、其には別に理由も何も無い、究竟学校が違つて了つた所から、お互に今日あつて昨日も明日も無い子供心に、漠然と忘れて了つたのです、すると、私が二級に成つた時、山田が四級に入つて来たのです、実に這麼意外な想をした事が無い、第二中学に居た時は私より二級上の山田が、予備門では二級下の組に入つて来たのでせう、私は何為た事かと思ひました、然し、実に可懐かつたのです、顔を見ると手を把つて、直に旧交が尋められると云ふ訳で、其頃山田も私も猶且第二中学時代と易らず芝に住んで居ましたから、往復ともに手を携へて、議論を上下するも大きいが、お互の談も数年前よりは真面目に成つた、さて話をして見ると、山田は文章を以つて立たうと云ふ精神、私も同断だ、私の此志を抱いたのは、予備門に入学して一年許過ぎての事であるが、山田は彼の第二中学に居る時分から早く業に那様了見が有つたらしいのです、一年前に其志を抱いた私は未だ小説の筆は仇つて見なかつたのであるが、恐る可き哉、己より三歳弱い山田が既に竪琴草子なる一篇を綴つて、疾から価を待つ者であつたのは奈何です、然云ふ物を書いたから、是非一読して批評をしてくれと言つて百五六中枚も有る一冊の草稿を私に見せたのでありました、其の小説はアルフレツド大王の事蹟を仕組んだもので文章は馬琴を学んで、実に好く出来て居て、私は舌を巻きました、なか/\批評どころではない、敬服して了つたのです、因で考へた、彼が二年晩れて予備門に入つて来たのは、意味無くして遅々して居たのではない、其間に余程文章を修行したものらしい、増上寺の行誡上人や石川鴻斎翁の所へ行つたのは総て此間の事で、而して専ら独修をした者と見える、何でも西郷隆盛論であつたか、遊松島記であつたか鴻斎翁が始て彼の文章を見た時、年の若いに似合はぬ筆つきを怪んで、剽窃したのであらうと尤めたと云ふ話を聞きましたが、漢文も善く書いたのです、
次に硯友社の興るに就いて、第二の動機となつたのは、思案外史と予備門の同時の入学生で相識つたのです、其頃は石橋雨香と云つて居ました、是は私の竹馬の友の久我某が石橋とはお茶の水の師範学校で同窓であつた為に私に紹介したのでしたが、其の理由は第一私と好を同うするし、且面白い人物であるから交際して見給へと云ふのでありました、是から私が又山田と石橋とを引合せて、先づ桃園に義を結んだ状です、
其内に山田は芝から一ツ橋まで通学するのは余り遠いと云ふので、駿河台鈴木町の坊城の邸内に引越した、石橋は九段坂上の今の暁星学校の在る処に居たのですが、私は不相変芝から通つて居た、山田と益親密になるに就けて、遠方から通ふのは不都合であるから、僕の家に寄宿しては奈何です、と山田が云つてくれるから、願うても無き幸と、直に笈を負て、郷関を出た、山田の書斎は八畳の間でしたが、其に机を相対に据ゑて、北向の寒い武者窓の薄暗い間に立籠つて、毎日文学の話です、此に二人が鼻を並べて居るから石橋も繁く訪ねて来る、山田は出嫌ひであつたが、私は飛行自由の方であるから、四方に交を結びました、処が予備門内を普く尋ねて見ると、なか/\斯道の好者が潜伏して居るので、それを石橋と私とで頻に掘出しに掛つた、すると群雄四方より起つて、響の声に応ずるが如しです、是が硯友社創立の導火線と成つたので、
さて其頃の三人の有様は如何にと云ふに、山田は勉強家であつたが、学科の方はお役目に遣つて居て、雑書のみを見て居た、石橋は躰育熱心の遊ぶ方で、競争は遣る、器械躰操は遣る、ボートは善く漕ぐ、水練は遣る、自転車で乗廻す、馬も遣る、学科には平生苦心せんのであつたが、善く出来ました、試験の成績も相応に宜しかつた、私と来ると、山田とも付かず石橋とも付かずでお茶を濁して居たのです、其頃世間に持囃された読物は、春のや君の書生気質、南翠君の何で有つたか、社会小説でした、それから、篁村翁が読売新聞で軽妙な短編を盛に書いて居ました、其等を見て山田は能く話をした事ですが、此分なら一二年内には此方も打つて出て一合戦して見やう、而して末には天下を…………などゝ云ふ大気焔も有つたのです、
処へ或日石橋が来て、唯恁して居るのも充らんから、練習の為に雑誌を拵へては奈何かと云ふのです、いづれも下地は好なりで同意をした、就ては会員組織にして同志の文章を募らうと議決して、三人が各自に手分をして、会員を募集する事に成つた、学校に居る者、並に其以外の者をも語合つて、惣勢二十五人も得ましたらうか、其内過半は予備門の学生でした、
今日になつて見ると、右の会員の変遷は驚く可き者で、其内死亡した者、行方不明の者、音信不通の者等が有るが、知れて居る分では、諸機械の輸入の商会に居る者が一人、地方の判事が一人、法学士が一人、工学士が二人、地方の病院長が一人、生命保険会社員が一人、日本鉄道の駅長が一人、商館番頭が築地(諸機械)と横浜(生糸)とで二人、漁業者と建築家とで阿米利加に居る者が二人、地方の中学教員が一人、某省の属官が二人、大阪と横浜とで銀行員が二人、三州の在に隠れて樹を種ゑて居るのが一人、石炭の売込屋が一人、未だ/\有るが些と胸に浮ばない、先づ這麼風に業躰が違つて居るのです、而して、後〻硯友社員として文壇に立つた川上眉山、巌谷小波、江見水蔭、中村花痩、広津柳浪、渡部乙羽、などゝ云ふ面々は、此の創立の際には尽く未見の人であつたのも亦一奇と謂ふべきであります、
因で其の雑誌と云ふのは、半紙両截を廿枚か卅枚綴合せて、之を我楽多文庫と名け、右の社員中から和歌、狂歌、発句、端唄、漢詩、狂詩、漢文、国文、俳文、戯文、新躰詩、謎も有れば画探しも有る、首の方には小説を掲げて、口画も挿画も有る、是が総て社員の手から成るので、其の筆耕は山田と私とで分担したのです、山田は細字を上手に書きました、私のは甚だ醜い、で、小説の類は余り寄稿者が無かつたので、主に山田と石橋と私とのを載せたのです、此の三人以外に丸岡九華と云ふ人がありました、此人は小説も書けば新躰詩も作る、当時既に素人芸でないと云ふ評判の腕利で、新躰詩は殊に其力を極めて研究する所で、百枚ほどの叙事詩をも其頃早く作つて、二三の劇詩などさへ有りました、依様我々と同級でありましたが、後に商業学校に転じて、中途から全然筆を投じて、今では高田商会に出て居りますが、硯友社の為には惜い人を殺して了つたのです、尤も本人の御為には其方が結搆であつたのでせう、
それで、右の写本を一名に付三日間留置の掟で社員へ廻したのです、すると、見た者は鉛筆や朱書で欄外に評などを入れる、其評を又反駁する者が有るなどで、なか/\面白かつたのであります、此の第壱号を出したのが明治十八年の五月二日です、毎月壱回の発行で九号まで続きました、すると、社員は続々殖ゑる、川上は同級に居りましたので、此際入社したのです、此人は本郷春木町に居て、石橋とは進文学舎の同窓で、予備門にも同時に入学したのでありましたが、同好の士であることは知らなかつたと見えて、是まで勧誘もしなかつたのでありました、眉山人と云ふのは遥か後に改めた名で、其頃は煙波散人と云つて居ました、