要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。したがって「いき」は無上の権威を恣にし、至大の魅力を振うのである。「粋な心についたらされて、嘘と知りてもほんまに受けて」という言葉はその消息を簡明に語っている。ケレルマンがその著『日本に於ける散歩』のうちで、日本の或る女について「欧羅巴の女がかつて到達しない愛嬌をもって彼女は媚を呈した{4}」といっているのは、おそらく「いき」の魅惑を感じたのであろう。我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないであろうか。
{1}『春色辰巳園』巻之七に「さぞ意気な年増になるだらうと思ふと、今ツから楽しみだわ」という言葉がある。また『春色梅暦』巻之二に「素顔の意気な中年増」ということもある。また同書巻之一に「意気な美しいおかみさんが居ると言ひましたから、それぢやア違ツたかと思つて、猶くはしく聞いたれば、おまはんの年よりおかみさんの方が、年うへのやうだといひますし云々」の言葉があるが、すなわち、ここでは「いき」と形容されている女は、男よりも年上である。一般に「いき」は知見を含むもので、したがって「年の功」を前提としている。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。
{2}我々が問題を見ている地平にあっては、「いき」と「粋」とを同一の意味内容を有するものと考えても差支ないと思う。式亭三馬の『浮世風呂』第二編巻之上で、染色に関して、江戸の女と上方の女との間に次の問答がある。江戸女「薄紫といふやうなあんばいで意気だねえ」上方女「いつかう粋ぢや。こちや江戸紫なら大好/\」。すなわち、「いき」と「粋」とはこの場合全然同意義である。染色の問答に続いて、三馬はこの二人の女に江戸語と上方語との巧みな使い別けをさせている。のみならず「すつぽん」と「まる」、「から」と「さかい」などのような、江戸語と上方語との相違について口論をさせている。「いき」と「粋」との相違は、同一内容に対する江戸語と上方語との相違であるらしい。したがって、両語の発達を時代的に規定することが出来るかもしれない(『元禄文学辞典』『近松語彙』参照)。もっとも単に土地や時代の相違のみならず、意識現象には好んで「粋」の語を用い、客観的表現には主として「いき」の語を使うように考えられる場合もある。例えば『春色梅暦』巻之七に出ている流行唄に「気だてが粋で、なりふりまでも意気で」とある。しかし、また同書巻之九に「意気の情の源」とあるように、意識現象に「いき」の語を用いる場合も多いし、『春色辰巳園』巻之三に「姿も粋な米八」といっているように、客観的表現に「粋」の語を使う場合も少なくない。要するに、「いき」と「粋」とは意味内容を同じくするものと見て差支ないであろう。また、たとえ一は特に意識現象に、他は専ら客観的表現に用いられると仮定しても、客観的表現とは意識現象の客観化にほかならず、したがって両者は結局その根柢においては同一意味内容をもっていることになる。
{3}Stendhal, De l'amour, livre I, chapitre I.
{4}Kellermann, Ein Spaziergang in Japan, 1924, S. 256.