三
吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管を拭いながら、戦える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。
燭台の蝋燭は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈は暗し数行虞氏の涙という風情だ。
吉里の涙に咽ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴたを拭っていた手を止めて口を開いた。
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」
吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。
「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷ないわけに行かないんでね、私も実に困っているんだ」
「家君さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。
「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚い弟はあるし、妹はあるし、お前さんも知ッてる通り母君が死去のだから、どうしても平田が帰郷ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」
「平田さんがお帰郷なさると、皆さんが楽におなりなさるんですか」
「そうは行くまい。大概なことじゃ、なかなか楽になるというわけには行かなかろう。それで、急にまた出京るという目的もないから、お前さんにも無理な相談をしたようなわけなんだ。先日来のようにお前さんが泣いてばかりいちゃア、談話は出来ないし、実に困りきッていたんだ。これで私もやっと安心した。実にありがたい」
吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。
西宮は注ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」
「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里は淋しく笑ッて銚子を取り上げた。
眼千両と言われた眼は眼蓋が腫れて赤くなり、紅粉はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。
「どうだね、一杯」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉ッて一息に飲み乾し、猪口を下へ置いてうつむいてまた泣いていた。
「本統でしょうね」と、吉里は涙の眼で外見悪るそうに西宮を見た。
「何が」と、西宮は眼を丸くした。
「私ゃ何だか……、欺されるような気がして」と、吉里は西宮を見ていた眼を畳へ移した。
「困るなア、どうも。まだ疑ぐッてるんだね。平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌てて遮ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」
「なに平気なものか。平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」
「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」
「いや、話したろう。幾たびも話したはずだ。お前さんが相手にしないんじゃないか。話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」
「だッて、私ゃ否ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。
「それ御覧。それだもの。平田が談話すことが出来るものか。お前さんの性質も、私はよく知ッている。それだから、お前さんが得心した上で、平田を故郷へ出発せたいと、こうして平田を引ッ張ッて来るくらいだ。不実に考えりゃア、無断で不意と出発て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。もう承知しておくれだッたのだから、くどく言うこともないのだが……。お前さんの性質だと……もうわかッてるんだから安心だが……。吉里さん、本統に頼むよ」
吉里はまた泣き出した。その声は室外へ漏れるほどだ。西宮も慰めかねていた。
「へい、お誂え」と、仲どんが次の間へ何か置いて行ッたようである。
また障子を開けた者がある。次の間から上の間を覗いて、「おや、座敷の花魁はまだあちらでございますか」と、声をかけたのは、十六七の眼の大きい可愛らしい女で、これは小万の新造のお梅である。
「平田さんもまだおいでなさらないんですね」と、お梅は仲どんが置いて行ッた台の物を上の間へ運び、「お飯になすッちゃアいかがでございます。皆さんをお呼び申しましょうか」
「まアいいや。平田は吉里さんの座敷にいるかい」
「はい。お一人でお臥ッていらッしゃいましたよ。お淋しいだろうと思ッて私が参りますとね、あちらへ行ッてろとおッしゃッて、何だか考えていらッしゃるようですよ」
「うまく言ッてるぜ。淋しかろうと思ッてじゃアなかろう、平田を口説いて鉢を喰ッたんだろう。ははははは。いい気味だ。おれの言う言を、聞かなかッた罰だぜ」
「あら、あんなことを。覚えていらッしゃいよ」
「本統だから、顔を真赤にしたな。ははははは」
「あら、いつ顔なんか真赤にしました。そんなことをお言いなさると、こうですよ」
「いや、御免だ。擽ぐるのは御免だ。降参、降参」
「もう言いませんか」
「もう言わない、言わない。仲直りにお茶を一杯。湯が沸いてるなら、濃くして頼むよ」
「いやなことだ」と、お梅は次の間で茶を入れ、湯呑みを盆に載せて持って来て、「憎らしいけれども、はい」
「いや、ありがたいな。これで平田を口説いたのと差引きにしてやろう」
「まだあんなことを」
「おッと危ない。溢れる、溢れる」
「こんな時でなくッちゃア、敵が取れないわ。ねえ、花魁」
吉里は淋しそうに笑ッて、何とも言わないでいる。
「今擽られてたまるものか。降参、降参、本統に降参だ」
「きっとですか」
「きっとだ、きっとだ」
「いい気味だ。謝罪せてやッた」
「ははははは。お梅どんに擽られてたまるもんか。男を擽ぐる急所を心得てるんだからね」
「何とでもおっしゃい。どうせあなたには勝いませんよ」と、お梅は立ち上りながら、「御膳はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。
誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉てた者がある。
「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、ぱたぱたぱたぱたと廊下を走る草履の音が聞えた。
「まア」と、お梅の声は呆れていた。