⦅二⦆
昨日も今日も秋の日はよく晴れて、げに小春の天気、仕事するにも、散策を試みるにも、また書を読むにも申し分ない気候である。ウォーズウォルスのいわゆる
『一年の熱去り、気は水のごとくに澄み、天は鏡のごとくに磨かれ、光と陰といよいよ明らかにして、いよいよ映照せらるる時』
である、気が晴ればれする、うちにもどこか引き緊まるところがあって心が浮わつかない。断行するにも沈思するにも精いっぱいできる。感情も意志も知力もその能を尽くすべき時である。冬はいじけ春はだらけ夏はやせる人でも、この季節ばかりは健康と精力とを自覚するだろう。それで季節が季節だけに自分のウォーズウォルス詩集に対する心持ちがやや変わって来た、少しはしんみりと詩の旨を味わうことができるようである。自分は南向きの窓の下で玻璃越しの日光を避けながら、ソンネットの二、三編も読んだか。そして“Line Composed a few miles above Tintern Abbey”の雄編に移った。この詩の意味は大略左のごとくである。
五年は経過せり。しかしてわれ今再びこの河畔に立ってその泉流の咽ぶを聴き、その危厳のそびゆるを仰ぎ、その蒼天の地に垂れて静かなるを観るなり。日は来たりぬ、われ再びこの暗く繁れる無花果の樹陰に座して、かの田園を望み、かの果樹園を望むの日は再び来たりぬ。
われ今再びかの列樹を見るなり。われ今再びかの牧場を見るなり。緑草直ちに門戸に接するを見、樹林の間よりは青煙閑かに巻きて空にのぼるを見る、樵夫の住む所、はた隠者の独座して炉に対するところか。
これらの美なる風光はわれにとりて、過去五年の間、かの盲者における景色のごときものにてはあらざりき。一室に孤座する時、都府の熱閙場裡(ねっとうじょうり)にあるの日、われこの風光に負うところありたり、心屈し体倦むの時に当たりて、わが血わが心はこれらを懐うごとにいかに甘き美感を享けて躍りたるぞ、さらに負うところの大なる者は、われこの不可思議なる天地の秘義に悩まさるるに当たり、これらの風光を憶(おも)うことによりて、その圧力を支え得たることなり。もしそれこれを憶うていよいよ感じ、瞑想(めいそう)静思の極にいたればわれ実に一呼吸の機微に万有の生命と触着するを感じたりき
もしこの事、単にわが空漠たる信念なりとするも、わが心この世の苦悩にもがき暗憺たる日夜を送る時に当たりて、われいかにしばしば汝に振り向きたるよ、ああワイの流! 林間の逍遙子(しょうようし)よ、いかにしばしばわが心汝に振り向きたるよ!
しかしてわれ今、再びここに立つ。わが心は独に今のこの楽しさを感ずるのみならず、実にまた来たるべき歳月におけるわが生命とわが食物とは今のこの時の感得中にあるべきなり。あえて望むはその感得の児童の際のごとからんことなり。
あの時は山羊のごとく然り山野泉流ただ自然の導くままに逍遙したり。あの時は飛瀑の音、われを動かすことわが情のごとく、巌や山や幽𨗉なる森林や、その色彩形容みなあの時においてわれを刺激すること食欲のごときものありたり。すなわちあの時はただ愛、ただ感ありしのみ、他に思考するところの者を藉り来たりて感興を助くるに及ばざりしなり。されどかの時はすでに業に過ぎ逝きたり。
しかもわれはこの経過を唸かず哀(かな)しまざるなり。われはこの損失を償いて余りある者を得たり。すなわちわれは思想なき児童の時と異なり、今は自然を観ることを学びたり。今や人情の幽音悲調に耳を傾けたり。今や落日、大洋、清風、蒼天、人心を一貫して流動する所のものを感得したり。
かるが故にわれは今なお牧場、森林、山岳を愛す、緑地の上、窮天の間、耳目の触るる所の者を愛す、これらはみなわが最純なる思想の錨、わが心わが霊及びわが徳性の乳母、導者、衛士たり。
ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指す)、汝今われと共にこの清泉の岸に立つ、われは汝の声音中にわが昔日の心語を聞き、汝の驚喜して閃く所の眼光裡にわが昔日の快心を読むなり。ああ! われをしてしばしなりとも汝においてわが昔日を観取せしめよ、わが最愛の妹よ!
そもそもまたかく祈る所以の者は、自然は決して彼を愛せし者に背(そむ)かざりしをわれ知ればなり。われらの生涯を通じて歓喜より歓喜へと導くは彼の特権なるを知ればなり。彼より享くる所の静と、美と、高の感化は、世の毒舌、妄断(もうだん)、嘲罵、軽蔑をしてわれらを犯さしめず、われらの楽しき信仰を擾(みだ)るなからしむるを知ればなり。
かるが故に、月光をして汝(妹)の逍遙を照らしめよ、霧深き山谷の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ。汝今日の狂喜は他日汝の裏に熟して荘重深沈なる歓と化し汝の心はまさに凞しき千象の宮、静かなる万籟の殿たるべし。
ああ果たしてしからんか、あるいは孤独、あるいは畏懼、あるいは苦痛、あるいは悲哀にして汝を悩まさん時、汝はまさにわがこの言を憶うべし。
他日もし、われまた汝を見るあたわざるの地にあらんか、汝まさにわれと共にこの清泉の岸に立ちしことを忘るなかれ。
まずザットこういう意味である。自分は繰り返して読んだ。そしてどういう句に最も強くアンダーラインしてあるかと見れば、最初の『五年は経過せり』の一句及び『わが心は独に今のこの楽しさを感ずるのみならず、実にまた来たるべき歳月におけるわが生命とわが食物とは今のこの時の感得中にあるべきなり』の句を始めとして『自然は決して彼を愛せし者に背かざりし』の句のごとき、そして
“Therefore let the moon
Shine on thee in thy solitary walk;
And let the misty mountain winds
be free to blow against thee.”
の句に至っては二重にも線が引いてある。何のために引いたか、そもそもまたこの濃い青い線をこれらの句の下に引いたのは、いつであるか。
『七年は経過せり』と自分は思わず独語した。そうだ。そうだ! 七年は夢のごとくに過ぎた。