その言い方が不明瞭だったので警官は敏活にこれを聞きとがめた。
「新聞だと? 配達夫か」
「新聞記者です」
彼はこう言わなければならなかった。
そこでその新聞社の名を訊くと、もうあとは何も別に詳しいことを尋ねようともしなかった。小半時間ばかりして新聞社から着物を持って人が来たので、彼はその部屋から出されて応接室へ移された。そこでは給仕がお茶を持って来てくれたりした。湯気のたちのぼる熱いお茶をすすりながら、彼は初めてほっと大きな吐息をした。閑な警官が二三人そこへ来て笑いながらいろいろと昨夜の話しをして聞かせた。それによると、何でもまだ十時をちょっと過ぎたばかりぐらいの時刻だったそうだ。落ちたというのはこの警察署のすぐわきを流れている溝川で、彼の落ち込むところを一人の警官がちょうど見ていたということだ。そこに川なんかのあるのにてんで気がつかずにいたものらしく、道が曲っているのを真直ぐに歩るいて来て、大手を振りながら落っこちてしまった。……
それから一人の警官は、わざわざ彼を窓のところまで引張って来て、下の方を指差しながら
「それ、その川だ。岸の石垣の高さがあれでも一丈もあるだろうよ、……梯子を下すやら、それは騒いだよ。君の帽子がぷんぷらぷんぷら流れてゆくのを見て、それを君だなんて言うものがあったりして、その辺に君の姿がしばらくの間見えなくなってしまったんだからね。……でも、まあ、君の運がまだ尽きなかったのだね。……何しろ素敵に酔っていたんだから」
こんなことを言った。
曽根はそれらの話を一語も聞き洩らすまいと熱心に聞いた。聞きながらもその場合場合の記憶を呼び起そうと一生懸命にあせっていた。しかし、覚えのない部分はあくまで覚えがなく朦朧としていた。それがまた彼を暗い憂鬱に陥らしめた。
下宿へ帰った時、玄関のあたりに主婦の姿が見えなかったので彼はほっと幽かな吐息をした。大急ぎで車屋に賃金を払い、車のけこみへ乗せて来た濡れた洋服の風呂敷包みを片手にぶら下げて、梯子段を走るようにして上った。
部屋は昨日の朝出た時のままに取り散らかっていていかにも不愛相に感ぜられた。新聞が障子のすき間から投り込まれて、あたりに不行儀に散らばっていた。彼は、(あのちびの奴、いくら言ってもこうして行きやがる)こんなことをつぶやきながらそれを拾って机の上へ載せた。が、とてもそれを開いて見る気はなかった。手にさげて来た風呂敷包みを片隅に置いてしばしぼんやり立っていたが、取付き場がなく、味気なくてしようがないので、押入れから布団を引きずり出してその中へもぐり込んだ。すると今まで外面へ張りつめていた気がゆるんだとでも言うのか、急にあるえたいのしれない烈しい寂寞と哀愁とが大颶風のように彼に迫って来た。熱い涙がつき走るように彼の目から流れ出た。彼はこらえることが出来ないで身を慄わして慟哭した。
何かしら自分というものが限りなく不憫でならなかったのだ。自分をかばっていてくれるものが、この広い広い世界に誰一人ないように思われて淋しかったのである。ほんとに自分の命だって自分がちょっとでも油断しようものなら、どんなことになってしまうかわからないように思われて怖ろしく、そして哀れでならなかった。
口を塞がれるような、今にも窒息してしまいそうな苦しみの記憶が時々彼の頭に浮んで来た。目をつぶると、丸裸の身体にぼろ毛布をまきつけられて、警察の留置所に入れられて横たわっていた、ついさっきまでの自分のあさましい、みじめな姿がまざまざと見えてくる。小さくなって警官にいろいろ訊きただされていた、おどおどした自分を思い出すと、何だか羞かしいような、また何物かからひどく卑しめられてるような、そしてまた何物かに対して大変申しわけがないようなさまざまな思いが、じめじめした雨かなどのように彼の心に降りそそいで来た。涙がいつまでもとめどなく流れ出た。
お午少し過ぎに、曽根の部屋へ宿の主婦が入って来た。主婦は忌々しそうに彼に言った。
「……あの、ご都合はいかがでございましょうか」
いつものおきまりのやつである。彼は別に言いようもないので、いつものとおり、
「どうも、今何にもないんです。どうぞ今少し待って下さい。そのうちにきっとどうかしますから」と言った。
主婦は(またか)といったような顔つきをしてしばし黙っていたが、
「わたしどもでも大変に困っているんですよ。……それに、はじめ月の五日にいくらか出して下さるはずでしたのにそれも駄目、十日までにはこんどきっとということでしたのに、それもなんなんでしょう。家でも都合があって払いの方へもそう言ってあるんです、……あんまりなんすると家がみんな不信用になって商売が出来なくなってしまうんです。……是非何とかしていただかなければならないんですが、……」
と言って寝ている曽根の顔を覗くようにして見た。
いつもなら、曽根はこう言われればついそれにつり込まれてその気になり、本当に自分が大変に済まないように思い、出来ないのは知りつつも(両三日中にはきっとどうかしますから)といった工合に出るのだが、今日はそれを言う元気さえなかった。そしてかえってあべこべに心の中に余裕があるようであった。それに布団の中にいたので多少気が落ちついていたものと見えて、(まあ、主婦さんもこのごろは金の催促がうまくなったこと! それにしても、まだ年が若いのに、この人もほんとに気の毒な……)こんなことを心に思うて黙っていた。
主婦はまた続けた。
「私の申し上げようが手ぬるいと言っていつも私は良人に叱られるんですよ。かんしゃくを起こして酷く私を殴ちのめすんです。ほんとにやりきれやしない」それもみんなあなた方のせいだ。と言わぬばかりに言う。しかし彼は次のようなことを思うてやっぱり黙っていた。
(なあに、たかが五十円足らずの金じゃないか。いつまでやらないと言うのではなし、――よしまた全然それが払えないで終ったとしたところで、それが僕の全生涯から観て、どれほどの不善でもありやしない)
何と言っても彼が黙っているので、主婦は根敗けして、
「ほんとに困ってしまう、――それでは月末には是非とも間違いなくお願いしますよ」と言って思いきりわるそうに出て行った。
曽根は、今日は一日社も休み、「自分の生命」のために、そんな小さなことに煩わされずに、もっと偉いことについて静かに瞑想しようと思うた。が、やはりそのことがうるさく気になって不愉快でならなかった。
灯ともしごろになって、友の松本がひょっこりやって来た。また例によって少し酒気を帯びていた。事によったら、もう少し飲み足すつもりかなんかで、いくらか借りに来たのだったかも知れないが、悲愴な顔をして曽根が寝ているのを見ると、それどころではなく静かに近寄って、
「どうしたのだ、身体の工合でもわるいのか」と憂わしげにたずねた。
曽根は、病気で寝ているのでないことを言い、昨夜のことを告げ「生命の直覚」のいかに淋しいかを物語った。
あとで、松本は自分のはなしをはなした。
「とてもやりきれない。月給でも増してくれなければ、今度こそはいよいよ退社してしまう。なあに、いよいよ窮すればそこに必らずまた新らしい道が開けるにきまっている。――」
こう言った。彼の話によると、彼の勤めている社は実は大へんに可憐そうなことになっているのだそうだ。社に一人悪い奴がいて、社主が地方へ出張している間に社の金を費いこむ、しておかねばならぬ仕事は手も付けずおまけに社主の妻君と姦通したとか、しないとか。松本もそんな地盤の上でいくら働いても働き甲斐もなければ、また働らく精もないというのだ。何やかや一切が気に入らないので毎日酒を飲んでごろごろしているので小使いがなくなり、なくなりしてこの月になって社へちょくちょく月給の前借りをやりだし、今じゃもう月末になっても貰う分が一文も残っていない、それに下宿の払いも二月ばかりたまっているし、そんなことも言った。
しかし、おしまいにはやがて昂然とした調子で、「悲観することはないさ、やがて一切のことが皆どんどん経過してしまうのだ。いかなる苦悩も、いかなる困窮もいつかまた『時』とともに我々から過ぎ去り、消え去ってしまうのだ」こんなことを語り合うのだった。
翌朝、寝床を離れた時、曽根の頭は呆然していた。
蒸し暑い光と熱とを多量に含んだ初夏の風が、梅雨ばれの空を吹いていた。水気に富んだ低い雲がふわふわとちぎれては飛び、ちぎれては飛びしていた。地上にはそれにつれて大きな斑をなして日陰と日の照るところとが鬼ごっこでもしているように走り動いていた。せかせかする気忙しいような日であった。人の心も散漫と乱れて、落ちつかなかった。曽根は警察の留置所でくわれた南京虫のあとが、赤くはれ上り気持が悪くてしようがないので、社へ出る前にちょっと医者へ行って薬をつけてもらった。そして手だの首筋だの、外へ出て人目に触れる部分には繃帯をしてもらったりした。
社へ行くと、下足番の爺さんが、彼の上草履を出しながらにやにや薄笑いして何か彼に言いそうにした。彼は何か言われないうちにと努めて不愛そうな顔つきをして急いで梯子段を上った。そこで外勤のF―何とかいった男に出会った。するとその男は、お互いについぞこれまで口を利いたこともないのだが、
「おや、曽根さん、おめでとう」と言って彼の肩を叩いた。
「いや」と、あいまいな返辞をして、振り払うようにして編輯の部屋へ入って行った。
誰かぱちぱちと手を拍いたものがあった。すると、今までペンを走らしていた人たちまでそのペンを措いて一斉に彼の方を見た。その人たちの顔が、いかにも、何か一口彼をからかってやらねばならぬと待ち構えていたかのように彼の目に映った。彼が席につくと、すぐ後ろにいた校正係りのT―老が朱筆をちょっと小耳に挾んで曽根の方へ向き、