さてその夜は明日を楽しみにおのおの臥床にはいッたが、夏の始めとて夜の短さ、間もなく東が白んで夜が明けた。
その日の四ツごろようように仕度が出来て、城下を去ること半里ばかりの長井戸の森をさして出かけた,同勢は母と、姉と、娘と、自分と、女中二人に下部一人、都合七人であッたところへ、例の勘左衛門が来合わせて、私もお伴をと加わッたので,合わせて八人となり、賑やかになッて出かけた。
家敷の? 郭を出て城下の町を離れると、俗に千間土堤という堤へ出たが,この堤は夏刀根川の水が溢れ出る時、それをくい止めて万頃の田圃の防ぎとなり、幾千軒の農家の命と頼む堤であるから、随分大きなものである,堤の上ばかりでも広いところはその幅十間からある、上から下へ下りるには一町余も歩かねば平地にはならぬ、まア随分大きな堤だ。堤の両側は平一面の草原で、その草の青々とした間からすみれ、蒲公英、蓮華草などの花が春風にほらほら首をふッていると、それを面白がッてだか、蝶が翩々と飛んでいる。右手はただもウ田畑ばかり,こッちの方には小豆の葉の青い間から白い花が、ちらちら人を招いていると,あちらには麦畑の蒼海が風に波立ッているところで、鳴子を馬鹿にした群雀が案山子の周囲を飛び廻ッて、辛苦の粒々を掘っている,遠くには森がちらほら散ッて見えるが、その蔭から農家の屋根が静かに野良を眺めている,蛇のようなる畑中の小径、里人の往来、小車のつづくの、田草を採る村の娘、稗を蒔く男、釣をする老翁、犬を打つ童、左に流れる刀根川の水、前に聳える筑波山、北に盆石のごとく見える妙義山、隣に重なッて見える榛名、日光、これらはすべて画中の景色だ。鄙の珍らしい娘の目にはさすがにこの景色が面白いと見えて、たびたびああいい景色と賞めた。
途中では出遇ッた人もまれであッた。初め出遇ッたのが百姓で、重そうな荷をえッちらおッちら背負ッていたが、わざわざ頬冠りを取って会釈して往き過ぎた。次に出遇ッたのが村の娘で、土堤の桑の葉を摘みに来たのか、桑の葉の充満た目籠をてんでん小脇に抱えていたが、われわれを見るとこそこそ土堤の端の方へ寄ッて、立ち止まッて,「あれはどこ様の嬢様だが、どこさアへ往かッせるか」などと噂をしていた。その次に見かけたのが農家の小児で、土堤で余念なく何やら摘んでいたが、その中一人が何か一言言ッたのを相図に、真暗三宝駆け出した,それから土堤の半腹まで往き、はるかにこちらをふり向いたが、上から勘左衛門が手招ぎをしたら、またわイわイと言ッて一目散に駆け下りてしまッた。
勘左衛門の来たのはわれわれの興を増す種であッた。この男が歩きながら始終滑稽を言ッていたので、途中は少しも退屈せず、いつの間にか境駅のこちらの渡し場まで来た。渡守はわれわれの姿を見るといきなり小屋から飛び出して、二ツ三ツ叩頭をしてそして舟を出した。
このところは川幅は六七町もあろうか、これから上になると十四五町もあろう、大刀根、小刀根、と分れるところでその幅最も広いところだ。娘は姉に向ッて言うには,「このごろ江戸で名の高い馬琴という作者の書いた八犬伝という本を読みましたが、その本に出る人で……」とかの犬飼犬塚の両犬士が芳流閣上より転び落ちて、つい行徳へ流れついたことを話して、その犬士の流されたところもここらであろうかなどと話しているうち、船は向うの岸へ着いた。それから上陸して境駅の入際からすぐ横へ切れると、森の中の小径へかかッた,両側には杉、檜、楢などの類が行列を作ッて生えているが、上から枝が蓋さッていて下に木下闇が出来ている、その小径へかかッた。
「もうじきそこからはいるのです。さア皆さん採りッこをしましょう」と勘左衛門が勇み立ッた、もっともわざと。
「秀さんようございますか」娘は笑いながら――「まけませんよ」
「ええ、ようございますとも。負けるもンか女なんぞに」
長井戸の森は何里ぐらい続いていたか、自分はよく覚えておらぬが、随分大きな森であッた,さて森の中の小径をおよそ二三町もはいッて往くと、葉守の神だか山の神だかえたいの分らぬ小さな神の祠の前へ出た、これが森の入口なので。森の中へはいッて見ると、小草の二三寸延びた蔭または蚊帳草の間などから、たおやめの書いた仮名文字ののしという恰好で、蕨が半身を現わしていた,われわれはこれを見ると,そらそこにも! おお大層に! ほらここにも! なんとまア! などとしきりに叫びながら小躍りをして採り始めた,始めのうちは皆一とこで採ッていたが、たちまち四五間七八間と離れ離れになッて採り始めた、そして一本の蕨を二人が一度に見つけた時などは、騒ぎであッた,
「あれ私が見つけたのだワ!」
「あらまア! お嬢様、おずるい。これは私が見つけました」
「お雪さま、清にお負けなさいますな」
そうかと思うとあちらの方では,「おやどこへ往ッたろう?」「こちら、こちら!」などと手を叩いていた。また蕨に気をとられて夢中でいると、突然足下から雉子が飛び出したのに驚かされたり,その驚かされたのが興となッて、一同笑壺に入ッたりして時のうつッたのも知らず、いよいよ奥深くはいッて往ッた。不意に人声が聞え出した,どこから聞えるのだか? 方々を見廻すと、はるか向うの木の間から煙が細く、とんと蛇のように立ち昇ッていた。
われわれは行くともなく、進むともなく、煙の立つ方へ近づいた,すると木の間から三人の人影が見えた。二人の男は紺の脚半に切緒の草鞋という厳重な足ごしらえで、白襟花色地の法被を着ていた,向う向きの男は後からでよく分らなかッたが、打割羽織を着ていて、しかもその下から大刀の鞘と小刀の小尻とが見えていた様子といい、一壇高き切株へどッかと腰を打ち掛けて、屋台店の蟹と跋扈かッていた為体といい、いかさまこの中の頭領と見えた。
われわれの近づくのに気がついたか、件の男はこちらをふり向いた,見覚えの貌だ,よく見れば山奉行の森という人で、残の二人は山方中間であッた。
山奉行というのは、年中腰弁当で山林へ出張して、山林一切のことを管督する役で、身柄のよい人の勤むる役ではない,それゆえ自分などに対しても、自然丁寧なので。
森は自分を見ると、満面に笑み傾けてそして立ち上ッて、
「おや、秀さん。蕨採りですかな? 大層大勢で。採れますかな? どらどらお見せなさい」
そのうちに一同も近づいて来た。森は二歩三歩前へ進み、母を始め姉や娘に向ッて、慇懃に挨拶をして、それから平蜘蛛のごとく叩頭をしている勘左衛門に向い,
「今日はお伴かな、御苦労だの」と言ッて、それからまた下女の方へ向いた、が物は言わず、ただ挨拶に笑貌を見せて、すぐまた母の方へ向き,
「いかがでござりまする、ちと小屋へいらしッて御休息をなすッては。はいはいいや誠にむさくるしいところで……が……渋茶でも献じましょう。こりゃ八助、何かを取り揃えて持ッて参れ、身共は小屋へ参るから。さ御案内致しましょう」
時刻は八ツごろでもあッたか、この辺は一面の杉林で、梢の枝は繁りに繁ッて日の目を蔽すばかり,時々気まぐれな鳩が膨れ声で啼いているが、その声が木精に響いて、と言うのも凄まじいが、あたりの樹木に響き渡る様子、とんと山奥へでも往ッたようで、なんとなく物寂しい。林中の立木を柱に取ッて、板屋根をさしかけたほッたて小屋,これは山方の人たちが俄雨に出遇ッた時、身をかくす遁れ場所で,正面には畳が四五畳、ただしたたというもみのないほどの汚ならしいやつ、それから前が土間になッていて、真中に炉が切ッてあろうという書割。
母と、森と、勘左衛門の三人が三鉄輪に座を構えて、浮世雑談の序を開くと、その向うでは類は友の中間同志が一塊となッて話を始めた,そこで自分は少し離れて、女中連の中へはいり込み、こちらの一方へ陣取ッた。
「秀さん」娘は笑いながら、「あなたどのくらい採りました、お見せなさい。おやたったそれきり、少ないことねエ,私の方が多うございますよ,そウら御覧なさい、勝ちましたよ私の方が」
自分はこの時姉がその身の採ッたのを娘のと一しょにしたところを見た。
「ああ、ずるいずるい、家の姉さんのを混ぜたのだもの」
「あら、あんなこと。ほほほほ混ぜはしませんよ」
「いいえ、混ぜました、混ぜましたよ,見ていましたからね」
「あら。まア、卑怯な、男らしくもない、負けたものだからそんなことを」
そのうちに渋茶がはいると、かねて中間に持たせて来た鮓を今日の昼食として、なお四方山の話をしていた。
その時勘左衛門の話に、このひょうきん者が検見の伴をして、村々を廻わッて、ある村で休んだ時、脚半の紐を締め直すとて、馬鹿なことさ、縁台の足ぐるみその紐を結びつけて、そして知らずにすましきッて、茶を飲んでいたが,そのうち上役の者が、いざ、お立ちとなッたので、勘左衛門も急いで立ち上ッて足を挙げると、いけない,挙げる拍子に縁台が傾いたので、盆を転覆えして茶碗を破したが、いまだにそれが一ツ話でと、自身を物語ッたのを、われわれ一同話を止めて、おかしな話と聞いていたが、実にこの男は滑稽家でもあッたが、またそそくさした男でもあッた。
さてしばらくここに休んでいたが、自分たちの組が大人を催促して、山奉行に別れて、再び蕨採りに出かけた。今度は出かけるや否や、すぐちりぢりになッて採り始めた。自分は娘の傍を離れず、娘が採るたびに自分の採ッたのと比較して見て、負けまいと思ッて励んでいたが、この時はもウ蕨に気を採られて、娘のことは思ッてはいなかッた,ト言ッて忘れてもいなかッたので,娘の傍にいるということは、闇に知ッていたので、いわゆる虫が知ッていたので,――その飄えるふりの袂、その蹴返す衣の褄、そのたおやかな姿、その美しい貌、そのやさしい声が、目に入り耳に聞えるので,――その人の傍にいるとどこかかすかに感じていたので,それゆえ一層楽しかッた。不意に自分は向うの薄暗い木の下に非常に生えているところを見つけた。嬉しさの余り、声を上げながら駆け寄ッて、手ばしこく採ろうとすると、娘も走けて来て採ろうとするから、採ッてはいけないと娘をささえて、自分一人で採ろうとした,がいけなかッた,自分は今まで採り溜めたのを、風呂敷へ入れて提げていたが、それを今すッかり忘れて、その風呂敷を手離して、娘と手柄を争ッたので、風呂敷の中から採ッたのが溢れて、あたりに散るという大失敗、あわてて拾い集めるうちに、娘は笑いながら、一ツも残さず採ッてしまッた。自分が見つけたのを横取りするのはひどい、返して下さい、と争ッて見たが、娘は情強く笑ッていて、返しそうな様子もないから、自分は口惜しくなり、やッきとなり、目を皿のようにして、たくさんあるところを、と、見廻わした、運よくまた見つけた、向うの叢蔭に、が運わるく娘も見つけた。や負けた、娘が先へ走り寄ッた。唐突に娘があれエと叫んだ、自分は思わずびッくりした,見れば、もウ自分の傍にいた、真青になッて、胸を波立たせて、向うの叢を一心に見て。自分は娘の見ているところ、その叢を見ると、草がざわざわと波立ッて、大きな青大将がのそのそと這ッて往ッた,しばらくして娘はほッと溜息を吐いて、ああ怖かッた、とにッこりしてそしてあたりを見廻わして、またおやと言ッた。先の驚きがまだ貌から消えぬうちに、新しい驚きがその心を騒がしたので、以心伝心娘の驚きがすぐ自分の胸にも移ッた。見ればあたりに誰もいない。母を呼びまた姉を呼んで見たが、答うる者は木精の響き、梢の鳥、ただ寂然として音もしない。