洋場頭に往ったところで、聞き覚えのある優しい女の声がした。
「おや、あなた」
許宣は左の方を揮り向いた。そこの茶館の簷下にさっきの白娘子が独り雨を避けて立っていた。
「や、あなたでしたか、さっきは失礼しました」
「さきほどは有難うございました、どうも雨がひどいものですから、婢に傘を執りに往ってもらって待っているところでございます」
「そうですか、それは……、では、この傘を持っていらっしゃい、私はすぐそこですから、傘が無くっても宜いのです」
許宣は己の手にした傘を女に渡そうとしたが、女は手を出さなかった。
「有難うございますが、それではあんまりでございますから、宜しゅうございます、もう、婢がまいりましょうから」
「なに、宜いんです、私は、もう、すぐそこですから、傘をさすほどのことはないのです、さあお持ちなさい、傘は私が明日でも執りにあがりますから」
「でも、あんまりですわ」
「なに、宜いのです」
許宣は強いて柄を女の前に持って往った。
「ではすみませんが、拝借いたしましょうか、私の家は荐橋の双茶坊でございます」
女はほっそりした長い指を柄にからませた。
「そうですか、それではまたお眼にかかります」
許宣は女に気をもまさないようにと、傘を渡すなり簷下に添うてとかとかと歩きだした。それといっしょに女も簷下を離れて石を敷いた道の上に出て往った。
許宣はその夜寝床に入ってからも白娘子のことを考えていた。姝な眼鼻だちの鮮かな女の姿が心ありそうにしてこっちを見ていた。彼は誘惑に満ちた女の詞を一つ一つ思いだしていた。と、物の気配がして寝室の帳を開けて入って来た者があった。許宣はびっくりしてその方へ眼をやった。そこには日間のままの白娘子の艶かしい顔があった。許宣は嬉しくもあればきまりもわるいので何か云わなくてはわるいと思ったが、云うべき詞が見つからなかった。
女は寝床の上にいつの間にかあがってしまった。許宣は呼吸苦しいほどの幸福に浸っていたが、ふと気が注くとそれは夢であった。
翌朝になって許宣は平生のように早くから舗へ往ったが、白娘子のことが頭に一ぱいになっていて、仕事が手につかないので、午飯の後で口実をこしらえて舗を出て、荐橋の双茶坊へ往った。
許宣はそうして白娘子の家を訪ねて歩いたが、それらしい家が見つからなかった。人に訊いても何人も知っている者がなかった。許宣は場所の聞きあやまりではないかと思って考えてみたが、どうしても双茶坊であるから、やめずに町の隅から隅へ訪ねて往った。しかし、それでもどうしてもそうした家がなかった。彼はしかたなしに諦めて、くたびれた足を引擦るようにして帰りかけた。と、東西になった街の東の方から青い上衣の小婢がやって来た。
「おや、いらっしゃいまし」
「傘をもらっていこうと思って、今、来たところですが、どこです」
許宣は腹の裏を見透されるように思って長い間探していたとは云えなかった。彼はそうして小婢に伴れられて往った。
おおきな楼房があって高い牆を四方に廻らしていた。小婢はその前に往ってちょっと足を止めて許宣の顔を見た。
「ここですわ」
許宣はこんな大きな家に住んでいた人が何故判らなかったろうと思って不審した。彼はそのまま小婢に随いてそこの門を潜った。
二人は家の中へ入って中堂の口に立った。
「奥様、昨日御厄介になった方が、いらっしゃいました」
小婢が内へ向いて云った。すると内から白娘子の声がした。
「そう、では、こちらへね、さあ、あなた、どうかお入りくださいまし」
白娘子の詞について小婢が云った。
「さあ、どうかお入りくださいまし」
許宣は入りにくいので躊躇していた。と、小婢がまた促した。
「奥様もあんなにおっしゃってますから、どうぞ」
許宣はそこで心を定めて入った。室の両側は四扇の隔子になって一方の狭い入口には青い布の簾がさがっていた。小婢は白娘子に知らすためであろう、その簾を片手に掲げて次の室へ往った。許宣はそこに立って室の容を見た。中央の卓の上に置いた虎鬚菖蒲の鉢が、先ず女の室らしい感じを与えた。そして、両側の柱には四幅の絵を掛けて、その中間になった所にも何かの神の像を画いた物を掛けてあった。神像の下には香几があって、それには古銅の香炉と花瓶を乗せてあった。
白娘子が濃艶な顔をして出て来た。許宣はなんだかもう路傍の人ではないような気がしていたが、その一方では非常にきまりがわるかった。
「よくいらっしゃいました、昨日はまたいろいろ御厄介になりまして有難うございました」
「いや、どういたしまして、今日はちょっとそこまでまいりましたから、お住居はどのあたりだろうと思って、何人かに訊いてみようと思ってるところへ、ちょうど婢さんが見えましたから、ちょっとお伺いいたしました」
二人が卓に向きあって腰をかけたところで、小婢が茶を持って来た。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにはゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品を持って来た。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、ま、お一つ、そうおっしゃらずに」
許宣は気の毒だと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「それでは失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょとお待ちを願います、昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転借をいたしましたから、すぐ執ってまいります、お手間は執らせませんから」
許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いてく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも執りにあがりますから、今日わざわざでなくっても宜いのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日対手がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
許宣は白娘子に別れ、小婢に門口まで見送られて帰って来たが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、己で己を意識することができなかった。そして、翌日舗に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へと往った。
許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出て来た。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります、傘をください、ここで失礼します」
許宣はそう云ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出て来てくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょとお入りくださいまし」
小婢はそう云ってから内へ入って往った。許宣は小婢が白娘子を呼びに往ったことを知ったので嬉しかった。彼は白娘子の声が聞えはしないかと思って耳を傾けた。
人の気配がして小婢が引返して来た。小婢の後から白娘子の顔が見えた。
「さあ、どうぞ、お入りくださいまし、もしかすると、今日いらしてくださるかも判らないと思って、朝からお待ちしておりました」
「今日はもうここで失礼します、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「私の方は、毎日遊んでおりますから、お客さんがいらしてくださると、ほんとに嬉しいのですわ、お急ぎでなけりゃ、お入りくださいましよ」
「私もべつに用事はありませんが、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「御用がなけりゃ、どうかお入りくださいまし、さあ、どうか」
許宣はきまりわるい思いをせずに、白娘子に随いて昨日の室へ往くことができた。室へ入って白娘子と向き合って坐ったところで小婢がもう酒と肴を持って来た。
「もうどうぞ、一本の破傘のために、毎日そんなことをしていただいては、すみません、今日はすぐ帰りますから、傘が返っているならいただきます」
許宣はなんぼなんでも一本の傘のことで二日も御馳走になることはできないと思った。
「まあ、どうか、何もありませんが、召しあがってくださいまし、お話ししたいこともございますから」
白娘子はそう云って心持ち顔をあからめた。それは夢に見た白娘子の艶かしい顔であった。許宣は卓の上に眼を落した。
「さあ、おあがりくださいまし、私もいただきます」
白娘子の声について許宣は盃を口のふちへ持っていったが、その味は判らなかった。許宣はそうして己の顔のほてりを感じた。
「さあ、どうぞ」
許宣は白娘子の云うなりに盃を手にしていたが、ふと気が注くとひどく長座をしたように思いだした。
「何かお話が、……あまり長居をしましたから」
「お話ししたいことがありますわ、では、もう一杯いただいてくださいまし、それでないと申しあげにくうございますから」
白娘子はそう云って許宣の眼に己の眼を持って来た。それは白いぬめぬめするかがやきを持った眼であった。許宣はきまりがわるいので盃を持ってそれをまぎらした。と、香気そのもののような女の体がそこに来てぴったりと触れた。
「神の前でお話しすることですから、決して冗談じゃありませんから、本気になって聞いてくださいまし、私は主人を歿くして、ひとりでこうしておりますが、なにかにつけて不自由ですし、どうかしなくちゃいけないと思っていたところで、あなたとお近づきになりました、私はあなたにお願いして、ここの主人になっていただきたいと思いますが」
貧しい孤児の前に夢のような幸福が降って湧いた。許宣は喜びに体がふるえるようであったが、しかし、貧しい己の身を顧みるとこうした富豪の婦人と結婚することは思いもよらなかった。彼はそれを考えていた。