その時の問題が今再び壮助に返って来た。
「病院に入れなければ……。」
それで果して効があるか否かは問われなかった。ただそうすることが、ただそうすることのうちにのみ、せめてもの望みがかけられた。壮助は唇をかみしめ乍ら、室の隅をじっと睥んだ。其処には高利貸の古谷の顔が浮んでいた。幾度も執拗にやって来ては僅かの彼の俸給をさえ押えると云って脅かすそのでぶでぶと脂ぎった顔が。
「まだそんな所に居られたのですか。」
そう云う羽島さんの声に壮助は喫驚した。そして顔を挙げると、羽島さんは急に眼を外らした。そして云った。
「飛んだことを申したようです。御心配なさらなくていいです。ほんとに、私が余り気を廻しすぎたんでしょう。いいです、いいですよ。」
羽島さんは何やら一人で首肯いていた。
壮助は立って来て、羽島さんの入れた茶を黙って飲んだ。羽島さんは茶をうまく入れることに多大の自信を有していた。
二
その夕方医者が診察にやって来た時、壮助は診察の終るのを待って一足先に表に出た。きっぱりした返答を得なければならないと彼は思った。
羽島さんの云うが如く腹部に大きい疾患が生じたのなら、その方の専門の医者に診せる方がいいだろう。然し主治医を取り換えることは道義上、また医者仲間の規約上、殆んど出来ないことだった。要は立会診察をなすか、もしくは入院させるか、二つしかなかった。それはまた後で何とか工夫もつくだろう。ただ今の所恐れずに真実に向ってつき進むの外はない。運命が凡てを決するだろう。そして壮助の前に運命がぴたりと据えられた。
医者が出て来た時、壮助は一寸物影に身を潜めるように身を引いて、あたりを見廻した。それからつかつかと医者の前に出て来た。
「あの一寸お伺いしたいことがありますが。」
「え何ですか。」と答えて医者は立ち止った。
壮助はじっと空間を見つめるようにしたが、そのまま医者の家の方へ先に立って歩き出した。医者もその後からついて来た。
夕暮の色がまだ明るい通りのうちに籠めていた。その中を忙しそうに人が通った。然し誰も彼等二人に注意を向けて行く者はなかった。
「病人の容態のことですが。」と壮助は切り出した。
「はあ。」
「余程険悪でしょうか。」
「そうですね、今の所少しは先よりもいいかと思いますが……。」
何でもないその言葉に、壮助は却って裏切られたような感じを得た。そしてもうすぐに問題のうちにつき込んでゆけた。
「何か腹部に故障があるのではありますまいか。」
「故障と云いますと?」
「重い腸の病でも併発したんでは。」
「いやそのことなら御安心なすっていいでしょう。私の診た所では余病を併発した徴候はありません。勿論これからのことは分りませんが。唯少し腹部と便の加減がおかしいと思ったことがあったのです。腸が結核菌に冒されるとあの衰弱した身体には余程困難ですから、それを恐れたのです。然し度々便を検査してみましたが、菌は認めません。それに肺の方も左胸に大分浸潤がありますが、この頃痰が余程少くなったのはよい徴候です。然し何しろ年がお若いし、衰弱が甚だしいのに食慾がないのですから、余程注意を要しますよ。それに水気が少しあるようですから。」
「それでは今の所危険だという状態ではないのでしょうか。」
「危険だと云えば危険ですが……。急な変化はあるまいと思います。兎に角も少し食慾をつけなければいけませんね。少し身体が恢復すればまた療法もありますが、何しろ衰弱がひどいですからね。それから熱を出さないようにしなければいけません。熱が出ると病勢も進むし、痰が多くなって衰弱も増すものです。それに心臓を弱らせないようにしなければいけません。」
壮助は何を信じていいか分らなかった。然し腹部に余病がないことと腸に結核がないこととは確からしかった。其処から光明が湧いて来た。彼は横から医者の顔を仰ぐがようにした。髪を長く伸し短い鬚を生やして、下目勝ちに物を睥むような癖のあるその年若い医学士に、彼は急に感謝したくなった。そして種々な細かい注意事項を尋ねた。胃腸を丈夫にして食慾を進めることが目下の急であり、滋養物も種々な製薬品よりは直接に生の肉や野菜から搾り取ったものの方がいいという彼の意見にも、壮助は自分の乏しい知識と常識とから首肯出来た。
二人は何時のまにか医者の家の前まで来てしまった。壮助は驚いたように急に別れを告げた。
「兎に角一寸病勢を防ぎ止めたのですから、よく注意なさらなければいけません。」と医者は終りに云った。
一人になると壮助は急に空に向って飛び上りたくなった。暗い杜絶したものが急に彼の前から取り払われた。凡てがよく、凡てがいいようになるであろう。彼は殆んど駈けるようにして羽島さんの家へ帰って来た。
狭い裏口の方に廻って其処から入ろうとすると、羽島さんが彼の足音を聞きつけて、すぐにやって来た。然し彼は何とも云わないでただ壮助の顔を見守った。
「心配なことは少しもありません。」
不用意に投げられたその一言が却って壮助自身を驚かした。彼は一寸息をつめて羽島さんの顔を仰いだが、それから静かに云った。
「腹部にも何処にも余病はないそうです。余病が出ると非常に危険だから念のために幾度も便の検査をしたんだそうです。それに胸部の痰もこの頃は非常に少くなっていると云っていました。病勢が一寸防ぎ止められているそうです。これから熱が出ず食慾が増してゆけばもう大丈夫なんです。然し衰弱がひどいから安心は出来ないそうですが、種々悉しく手当を教わって来ました。」
壮助は腸結核の問題に就いては何にも云わなかった。老人に対しては常になすべき多くの気兼があった。そして咄嗟の間に壮助はそれを忘れなかった。それから彼は医者から聞いた種々な細かな注意を話した。
羽島さんは黙って聞いていたが、壮助が話し終ると、何とも云えない顔をした。昏迷した表情のうちから静かな湿んだ眼が覗いていた。
「ではどうにか助かるかも知れませんね。」
「え?」
壮助はそう問い返したが、そのままあわてたように眼を外らした。何時のまにか彼等の心のうちに根を張っていた光子の死の予感が、表わに姿を示した。「どうかして助けなければ……。」そう思う心の奥に何時のまにか死の予感が、死の予期が、入り込んでいた。焦慮や諦めや希望やが其処に戦われた。
「兎に角これからが大切です。」
「そう……。」
羽島さんは手を挙げて、心持ち禿げ上った顔を撫でた。
何を悲しみ苦しむことがあろう!
「大丈夫です。」
壮助はそういう言葉を残して病室の方へ去った。
光子の側には看護婦が演芸画報を披いて見ていた。光子の視線はその姿を掠めてじっと壮助の顔の上に据えられた。
病室の淡い薬の香の籠った温気が、壮助の心を儚いもののうちに誘い込んでいった。彼は苦しくなった。
「お湯に行って来られませんか、私がついていますから。」
「左様ですか。」と答えて看護婦は暫く考えていたが、「では一寸行って参りましょう。」
看護婦が出て行った後、病室は静かに澱んできた。勝手許で用をしている小母さんの物音が間を置いてははっきり聞えるようだった。
天井を見ていた光子の眼がまたじっと壮助の方に向けられた。病に頬の肉が落ちてからその眼は平素よりも大きくなっていた、そしてその清く澄んだ黒目の輝きが露わになっていた。
「ねえ津川さん!」
壮助は自分の名を呼ばれて、畳の上に落していた眼をふと挙げた。
「私これでよくなるんでしょうか。」
「そんなことを考えるからいけないんだよ。よくなることばかり考えなけりゃいけないよ。医者も大変いいと云っていたから。」
光子は一寸黙っていた。
「ね、私に教えて下さらない?」
「何を?」
「先刻、お父さんと何を話していらしたの。」
壮助はじっと光子の眼を見返した。その眼には物を詰問するような輝きがあったが、壮助の視線に逢うとすぐに深い悲しみのうちに融け込んでいった。
「あなたまで私に隠そうとなさるんですもの。」
「いえ何も隠しはしないよ。いつだって何にも隠したことはないでしょう。先刻はね、お父さんが大変心配していらしたから、私が医者に詳しく聞いてあげようと云ったんだよ。そして医者が帰る時一緒に外を歩いて、種々なことを尋ねて来たよ。病気も大変いい方だと医者は云っていたけれど、大変今衰弱してるでしょう。だから早く滋養分を取って元気をつけなければいけないんだよ。今が大切な時なんだからね。」
光子は別に壮助の言葉をきいているようでもなかった。そして彼が云い終るとまた話を初めに戻した。
「誰も私に何にも知らしてくれないのよ。お父さんは何にも仰言らないし、お母さんはあの通り何にも分らないんでしょう。それにお医者様はいつもいいいいと云ったきりで帰ってゆかれるのよ。看護婦さんもただ私にお薬や牛乳を飲ませたり種々な話をするきりで、大事なことは何にも云ってくれないんですもの。私ききたいことが、大事なことが沢山あってよ。それに誰も何にも教えてくれないんですもの。」
「それはね、光ちゃんがききたいようなことは誰にだって分るものじゃないんだよ。自分にだってはっきり何がききたいか分らないんでしょう。けれどね、病気がよくなるとみんなはっきり分って来ることなんだよ。だから、ただじっとよくなることばかり考えているといいよ……。私が知ってることは何でも教えてあげるからね。今までだって何にも隠さなかったでしょう。だからききたいことがあったら何でも私にそう仰言い、ね。一つのことを種々な人から聞くのはいけないよ。私が知ってることは何でも教えてあげますからね。」
「ええ。」と光子は軽く首肯いた。
「隙のある限り度々来てあげますからね。」
「ええ来て頂戴な。……でも済みませんわね。」
光子は頭をぐたりと枕の上につけて、天井の隅を見つめていた。長く組んだ髪の毛が枕から畳の上に落ちていた。壮助はそれをそっと枕の上に程よく束ねてやった。