然し彼は別に嫉妬の情に駆られていたわけではなかった。彼は秀子に対してまだ純潔を保っていた。そして秀子も彼を、退屈な時間をつぶす友としてより外は待遇しなかった。そのことは、彼を嫉妬の情から遠く離して、伊藤と秀子とを眺むることを得せしめた。もし二人の交渉の圏内に引き入れられんとする時、自分の純潔な、肉体的に純潔な地位が危くなろうとする時、その時こそは断然と営を撒すべき時だと、彼は心に誓っていた。然しおか目には自分達二人は何と映ずるであろうかと思う時、彼は心が苦しくなってきた。そしてその苦しさを知り初めた彼の心を、しきりに秀子の耳朶が脅かした。
時としては、二人は夜更けに遠くまで歩き廻ることがあった。
「もう帰ろうじゃありませんか。」と山田の方から促した。
「そうね。もうあなた疲れて?」
「疲れはしませんが、いつまで歩いてもきりが無いから。」
「ほんとね、いつまで歩いてもきりはないわ。だけど、一晩中こうして歩いていたいような晩だわね。私がいつまでも、夜の明けるまで歩くと云ったら、あなたも一緒に歩いて下すって? え、どうなの?」
「歩くかも知れません。」
「知れませんだって、いやな人ね。」
「それでは屹度歩きます。」と山田は苦笑しながら云った。
「ほんと? そんなら私嬉しいわ。ではもう帰りましょう。私が一晩中歩くと云えば、あなたも歩いて下さるんだから、あなたがもう帰ると仰言れば、私も帰って上げてよ。交換問題だわね。だけど愛情だってつまりは交換問題じゃないの。あなたどう思って?」
「普通はそうでしょうが、然しそうでない場合も世の中にはあるでしょう。」
「そう、世の中にはね。けれどそれは私達の世の中ではないわ。……あなたは絶対派だわね。」そして秀子は笑った。
山田は驚いて彼女の顔を見つめた。絶対派だの相対派だのという言葉は、山田がよく口にしていた言葉だったのである。
山田の視線を感ずると秀子は急に笑いを止めた。そして甘えるような調子で云った。
「御免なさい。叱っちゃいやよ。絶対的なものは芸術の上だけだってあなたは仰言っていらしたわね。人生はみな相対的だって。であなたも本当は相対派だわね。私も相対派だわ。」
山田は何か抗弁しようとしたが、言葉が出なかった。
「つまらないこと云い出したものね。これで私も随分学者になったでしょう。みんなあなたのお蔭よ。だから、本当はもっと歩きたいんだけれど、一緒に帰ってあげるのよ。」
そして秀子は白い歯を出して笑った。山田は何とも云えずぞっと身震いがした。
二人はいつのまにか家の方に向って歩きつつあった。妙に銅色にぼかした月が低く向うには懸っていた。
「何か食べたくなくって?」
「そうですね。」
通りを透し見ても、一軒も起きてる家は無かった。人影はもう全く途絶えていた。それで二人は黙って家の前まで帰っていった。
「ご免なさい、方々引き廻して。」と秀子は軽くしなをして云った。「また来て下さいね。私一人でほんとに退屈だわ。この頃余り来ないのよ。(秀子は伊藤のことを云うのに、いつも主格をぬきにして何気なく云ってのけるのであった。)あした来て下さらないこと。御馳走するわ。」
「あしたは用がありますから。またそのうち来ます。」
「いいわよ。あした待ち伏せしてるから。」そして彼女は急に調子を変えて、早口に云った。「あなた私を堕落した女だと思っていらっして? 見捨ててはいやよ!」
山田がその時何か云おうとするのを彼女は押っ被せるようにして云った。
「おほほ、じょうだんだわ。ではおやすみなさい。またお待ちしてるわ。」
門口を押し開いてはいってゆく秀子の耳朶がまた、山田の眼の中に刻まれた。山田はぼんやりして足を返した。と急に、自分のうちの何物かが彼女と共に奪い去られたような気がした。彼女と別れて自分一人になると、自分の影の薄いことが痛切に感じられて来た。ただ何時からそうなったか、彼には自分でも分らなかった。然し次第に自分のうちのものが彼女に蚕食されてゆくのを彼は感じた。それは単に趣味の上のことばかりではなかった。彼はやがて驚いて眼を見張らなければならなかった。
それはかの乞食に出逢った晩から初った。
その乞食というのは汚いいざりであった。両袖をもぎ取った汚い黄色がかった浴衣地の襤褸を着て、その裾をまくった両足には、紺の股引らしいものをはいていた。両方の足の先は、軍隊用のゲートルみたいな布でぐるぐる巻いてあった。その両足をずるずる引きずりながら、草履をはめた両手と膝頭とで匐い廻っていた。頬骨の高く聳えた眉の濃い見るから悪党らしい顔の上には、茫々と伸びた頭髪が垂れ下っていた。背中に大きな雑嚢を一つ背負っていた。何がはいっているか、それは円く脹らんでいた。
もう夜はだいぶ更けていた。然し大勢の人が彼の後からぞろぞろついて歩いていた。「何だろう。――何処から来たんだろう。――巡査は咎めないのかしら。――今晩は何処で寝るつもりなんだろう。」――人々は口々に何か低く囁き合っていた。然しそう囁き合う人達の顔と乞食の姿とを等分に見比べながら、黙ってついて歩いてる人々の方がなお多かった。そのうちに酒屋の小僧らしい少年が一人居た。彼は謎の鍵を知ってでも居るかのように得意そうな顔をして、あたりの人々を顧みながら云った。「また来やがったな。なあに今に立ち上って馳け出すんだい。」
山田と秀子とが其処に通りかかったのは、丁度小僧がそう云った時であった。その言葉を耳にすると秀子は眼で山田に相図をした。そして二人は黙って群衆に交って乞食の後からついて行った。
丁度其処は、並木の無い電車通りであった。乞食は歩道の縁を匐って行きながら、時々止った。もう可なり疲れているらしかった。雑巾みたいな汚いものを下腹のあたりから取り出して、額の汗を拭った。そして、やがて或る電柱の根本に辿りつくと、其処に臀を据えたまま動かなかった。群集は遠くから半円を作って彼を取り巻いた。彼は時々眼を挙げて人々を眺めたが、またすぐに頭を垂れてしまった。そして何やら考え込んでいるらしかった。否、何にも考え込まないでぽかんとしていると云った方が適当であった。
山田は秀子の方を顧みた。彼女は眼を光らして、じっと乞食の方を見つめていた。少し首を前に突出し加減にして、きっと唇を結んで眼を光らしている彼女の姿は、残酷なほど好奇心に満ちていた。そしてその好奇心の底から、一種の壮厳な権威が覗いていた。山田は彼女のそう云う姿を初めて見たのであった。彼はその前に一種の圧迫を感じた。と突然、秀子はその権威の底から低く叫んだ、「それごらんなさい!」
眼を外らして乞食の方を見ると、其処には一つの慈善が行われていた。二三軒先の麺麭屋から、一人の女中が出て来て、乞食に麺麭の一片を恵んでいた。乞食はそれを片手に受けて、低く一度お辞儀をした。それから、その女中と手の上の麺麭を見比べて、また低くお辞儀をした。女中は向うに駆けて行った。乞食は暫く麺麭を見ていたが、それを背中の雑嚢の中にしまった。
暫くすると、此度はすぐ横の薄暗い荒物屋から、年取った女が出て来て、乞食にゴールデン・バットを一個恵んだ。乞食は前と同様にして、それをまた雑嚢にしまった。年取った女は、すぐに店の中に引込んだ。其の荒物屋の軒には、「たばこ」という赤い文字の看板が小さく出ていた。
群衆の中にまた囁きが起った。一人の職人らしい男が可なり大きな声で云った。「つまらねえ広告をしてやがる! だがあの乞食も巧えことを考えつきやがったな。」乞食はその言葉が聞えたか聞えないか、ふと頭を上げて周囲を見廻した。そして粗らな人垣を見ると、また頭を垂れてしまった。もう誰もやって来て施しをする者も無いらしかった。乞食はまた匐い出した。
暫くすると、乞食はまた匐い出した。先刻からの見物に飽きはてて立ち去る者もあったが、その代りにはまた新らしい人々が群集の中に加わった。山田も秀子の方を顧みた。秀子は彼の視線に向って軽い微笑を返した。然しその微笑には強い力が籠っていた。山田はまた彼女に引ずられるようにして、乞食の後について行った。
暫くゆくと、其処に大きな郵便局があった。その石の壁に沿うて狭い小路が薄暗い奥の方にはいっていた。乞食はその小路の中にはいり込んだ。そして十間ばかり先に止って、石の壁にもたれてじっと頭を掌の中に垂れた。群集は、小路の入口に立ち止ってひしめき合った。
その時、郵便局の横の門から配達夫が四五人出て来た。彼等は、群集を眺め、それから眼を移して乞食を眺めた。彼等は何やら囁き合った。するとそのうちの一人が大声に叫んだ。「又来てやがる! 行かねえか、騙り奴! 愚図々々してるとふん捉えて、つき出してやるぞ!」
乞食は黙ってふり返った。そして鋭い眼でじろりと見返した。それから急に向うの方へ匐い出した。人々は其処に立ち止ったまま、今までより勢よい速度で匐い去ってゆく乞食の姿を眺めていた。その姿が向うの薄暗い角に消えると、一番に配達夫等が郵便局の中に其処から立ち去った。それから群集が種々な意味のことを囁きながら、或は「騙り奴」を罵り、或は「不幸者」を弁護して、消え失せてしまった。
秀子は、散ってゆく人々にじろじろ見られるのもかまわずに、其処に立っていた。そして誰も居なくなると、急に真面目な顔で山田の方を顧みた。「行ってみましょう、」と彼女は云った。
二人は、郵便局の石の壁に沿ってその狭い小路にはいった。物のむれたような臭い匂いがあった。郵便局の壁がつきると、汚いごたごたした広場に出た。共同水道栓がその真中にあって、土地がじめじめしていた。それから広場を横に曲って、低い長屋の間を通りぬけると、ふいと静かな裏通りに出た。二人は夢から覚めたようにほっと息をついた。乞食の姿は何処にも見えなかった。