敬助は黙ってその言葉を聞いていた。
「……慶子さんの方は助からなかった。僕は変事を知らしてやった。親父さんと兄さんとがやって来てくれた。せめて君の方だけでも助けてくれと兄さんが云った。僕は泣いた。皆泣いた。……慶子さんの死体はその午後家に運ばれた。」
敬助はいつかそういうことは夢にみたような心地がした。そして黙っていた。
「君は生きなくちゃいけない!」と中西は云った。「僕と慶子さんの兄さんとで手を廻して、世間には発表しないようにしてある。知ってるのは僕達と、山根の家の人と、八重子さんとだけだ。周囲の者は、君に勇気を要求している。この事件に面してまた立ち上るだけの勇気を要求している。凡ては運命だ。君が信ずるとも信じなくともいい。ただ感じてさえくれればいい。運命ということを!」
深い沈黙が続いた。その時婆さんは立って来て、敬助の枕頭に坐った。彼女は一寸敬助の顔を覗き込んだが、そのまま顔を袖の中に埋めてしまった。
婆さんの泣いている姿を見ると、悲痛なものが敬助の胸の底からこみ上げて来た。彼は歯をくいしばって中西の手を握りしめた。
「中西!」そう彼は呼びかけた。後は言葉が出なかった。そしてじっと天井の片隅を見つめていると、何か恐ろしい打撃を身に感じた。
我を忘れて彼は立ち上った。と足の関節ががくりとして其処に倒れてしまった。
皆が集って蒲団の中に寝かしてくれるのを彼は感じた。それから一人置きざりにせられたような寂寥を感じて眼を開くと、右の手首を看護婦の手に握られていた。彼はそのまま手を任した。
看護婦はやがて彼の手を離して、机の上から小さな紙箱を持って来た。そして中から一包の薬を出して彼の方へ差出した。
「薬を召し上れな。」
敬助は息をつめた。白い紙に包んだ薬を差出してる彼女の顔が、一寸慶子の顔に思えた。とすぐにそれは冷かな看護婦の顔に代った。然し、その薬は毒薬だというように彼は感じた。それは動かし難い直覚のようだった。彼は首肯いた。そして眼をつぶって、白湯と共にその薬をぐっと呑み込んだ。口腔と舌とがざらざらに荒れているのを感じた。それから胃にどっしりと重い響きを感じた。彼は眼を閉じて、もう一言も口を利かなかった。全身に感ずる遠い疼痛のうちに、安らかな気分が漂って来た。表の通りに箱車の通る音がした。あとはまたひっそりとなったが、何処からか遠いざわめきが聞えてきた。彼はそれに耳を傾けて、何の物音だか聞き取ろうとした。然しどうしても分らなかった。
それから非常に長い空虚な時間が過ぎ去ったような気がした。額のあたりに重い陰影が下りてきた。
ふと何処からか、かすかな楽の音が洩れてきた。広い野原だった。大勢の男が何か担いで、野原を真直に横ぎっていった。よく見るとその群集に担がれたのは、一人の女だった。乱れた髪の間から白い顔が見えていた。見たこともない美しい顔だった。そして彼はしきりにその見知らぬ女の名前を考え出そうとした。するうちに、その女はいつしか自分と変っていた。群集は自分を柔く担ぎながら、空間を飛ぶように野を横ぎっていった。いつまで行っても野は広茫として際限がなかった。仄かな明るみが大気のうちに湛えていた。そしてその明るみの中に彼は意識が解け去るのを感じた。後はただ茫とした。……
敬助が眠りから覚めた時、障子には晩秋の日が明るくさしていた。彼はきょとんとした眼で室の中を見廻した。看護婦が向うに坐っていた。中西が寝転んでいた。ぱっとした明るみが、室の中に一杯漲って、凡てを不思議な世界に輝らし出していた。彼は柱から天井から襖までまざまざと眺め廻した。その時彼はふと思い出した。――先刻誰か自分の側に来て、ひそひそと泣いていた。彼は眼を覚そうとしたが、重い靄がどうしても頭から離れなかった。そのうちにまた静になった。
「おい!」そう彼は呼んだ。そして自分でもその声の大きいのに喫驚した。
中西が飛び起きて彼の側に来た。
「先刻誰か此処に来てやしなかったのか。」
中西は暫く彼の顔を窺っていたが、遂に云った。
「秋子さんが来ていた。」
その一言に彼は昨夜からのことがはっきり思い出せた。
「なぜ起さなかった?」
「よく眠ってたから。……秋子さんはまた来ると云っていた。」
敬助は何ともいわないで、中西の顔から眼を外らした。静に涙が湧き出て来た。彼は夜具を頭から被った。そして唇をかみしめた。いい知れぬ悲しみの情が胸の底からこみ上げて来た。眼瞼を閉じて涙を押え止めていると、頭がくらくらとしてきた。拳で一つ頭を叩くと、凡てが遠くなっていった。
やがて彼は静に蒲団から顔を出した。何という変化だろう。凡てのものが不思議に思えた。自分の生命が、時間が、あの事変の前後に於て、ふっと暗闇のうちに吸い込まれていた。そしてあの時の光景ばかりが明かに輝いてみえていた。或る距離を置いてそれをじっと見つめていると、それにもはや近づけないことを知ると、限り無い悲しみの情が湧いてきた。而も現在の事物が何というまざまざとした新らしさで、明るみのうちに曝け出されていることか。
「窓をしめてくれないか。」と彼は云った。
中西は立って行って窓の戸を閉めた。すると縁側の障子だけからさし込む光りが、室の中の陰影に程よく融け込んで、柔い夢のような明るみを拵えた。彼は何故ともなくほっと吐息をついた。
障子にさしてる日の光りで、朝の九時頃だと彼は思った。(そう時間を推測したことが、彼には自ら不思議に思えた。)八重子さんが尋ねて来た。
彼女は座に居る人々に一礼したまま、黙って敬助の枕頭に寄ってきた。敬助はじっとその顔を眺めた。すると彼女の眼から涙が出て来て、遂には其処につっ伏してしまった。
「もう大丈夫です。」と敬助は云った。
八重子は顔を上げた。もう泣いてはいなかった。
「御免下さいね。」そう彼女は云って微笑もうとしたらしかった。然しその微笑は、顔の筋肉を歪めたまま中途で堅くなった。彼女はそれをまぎらすためか、敬助の頭の下の氷枕に触ってみた。氷が水の中で音を立てた。その時初めて敬助は、自分が高熱に襲われてることを知った。
「僕はよっぽど熱が高かったのか。」と敬助は尋ねた。
「うむ、一時は心配だった。」と中西は答えた。「然しもう大したことではない。」
けれどもそれは気の無さそうな声だった。敬助は黙ってしまった。八重子の方へ何か云ってみたかったが、言葉がみつからなかった。
やがて、中西と八重子とは隣りの中西の室へ立って行った。暫く何か話し合ってるらしかったが、二つの室は壁に距てられていたので、声さえも聞えなかった。敬助は天井板の木目を見ながら、自分達に味方してくれた者は中西と八重子と秋子とだけだったことを思い出した。すると急に慶子の姿が頭に浮んできた。然し遠い夢の中のような気がした。彼はそれに自ら苛ら苛らしてきた。そしてしきりに凡てを近くに呼び戻そうとした。彼の眼はそれに裏切って熱く濡んでいた。
医者が来た。医者と共に中西と八重子とが戻って来た。
敬助は初めてその医者の顔を眺めた。年の若い医者だった。髪を綺麗に分けて、短い口髭を生やしていた。切れの長い眼がその顔立によく調和していた。
敬助は彼に反感が起った。それは彼が年若いせいだった。年若いことに不快を感ずるのを、自ら訳が分らなかった。それでも静にその診察に身体を任した。医者は一通り診察をすましてこんなことを尋ねた。
「何処か痛みはしませんか。」
「痛みません。」
「嘔気は?」
「ありません。」
「頭痛は?」
「しません。」
敬助は凡てを否定した。然し実際は、そう云われる身体の遠くにその三つを感ずるような気がした。それから彼は次の問いを待った。然し医者は首を傾げたままいつまでも何とも云わなかった。彼はくるりと寝返りをして向うを向いた。
医者が帰ってしまうと、急にひっそりとした。敬助は眼をつぶった。長い時間が過ぎた。そのうちにうとうととしていると、後ろで声がした。
「私もう参りますわ。」
八重子の声だった。敬助は驚いてふり向いた。八重子も喫驚したらしかった。彼女は立ちかけた腰をまた其処に下した。
「覚めていらっしたの?」と彼女は云った。
敬助は何とも答えなかった。そして、彼女の眼が赤く充血していること、頬に血の気がなくて皮膚が荒れていること、髪が乱れていること、凡て不眠から来る様子に彼はその時になって初めて気付いた。
「済みません。」そう敬助はいった。
八重子はちらと眼を瞬いて俯向いた。苦しい時間が過ぎた。「ではもう行ったらいいでしょう。」と云う中西の言葉に、彼女は初めて顔を上げた。
「ではまた参りますから。お大事に……。」そして彼女は低くお辞儀をした。
その時、彼女の束髪の下に隠れ去るその白い顔を眼瞼の中にしまい込むようにして、敬助は眼を閉じた。
八重子が帰ってゆくと、凡てを取り失ったような寂しい時間が寄せて来た。障子に当っていた朝日の光りはいつのまにか陰ってしまっていた。室の中にはしっとりとした空気が澱んでいた。もう中西とも何もいうことはなかった。
葡萄酒を一杯、鶏卵の卵黄を二つ、鶏肉の汁を一椀、粥を少量、それだけ敬助は食べた。出来るだけ多量に取るようにと看護婦は云ったが、嘔気がしてそれ以上は食せなかった。
「でもまあこれだけ召上れば……。」と云って婆さんは、室の中をうろうろしていた。然し何も彼女の片付けるようなものはなかった。
食物を取ると、敬助は急に嗜眠を覚えた。そしていつのまにか力無い眠りに陥っていった。
眠りの中に彼はこういうことを感じた。……高橋と斎藤とが室の入口に坐っていた。中西が彼等と何か話をしていた。言葉は少しも聞き取れなかった。敬助は眼を覚そうとしたが、それが非常に億劫だった。そのうちにも三人は何かしきりに話していた。そして暫くすると、二人は立ち上った。敬助はしきりに気になった。その時、中西が続いて立ち上ったので、彼は何か言葉を発した。然しそれは声になっては出なかった。三人が室の外に出てしまうと、彼は妙に安心を覚えて、またうとうとと眠ってしまった。……