斯くて私の決心は、いつのまにか泡沫のように消え去ってしまった。消え去るのが当然だった。私の内心は寧ろそれを望んでいたのだから。私にとっては、彼女の性質を矯正したいという欲求よりも、彼女を所有したいという欲求の方が、より直接でありより強いのであった。そして彼女を殴ったことによって、私は終局彼女に武器を一つ多く与えたのみだった。
秀子は私に右の頬を殴られてから、その奥歯が痛んで止まなかった。――彼女は美事な歯並を持っていた。上下揃った細い真白な歯並で、而も下歯が上歯の奥にはいり込んで合さるということがなかった。上歯の先端と下歯の先端とがいつもかち合っていた。そのために、物を食べる時奥歯を噛み合せるのに、口元へ可愛らしい皺が寄った。またそのために、平素唇が薄く細そりして見え、その唇の仇気ない子供らしい微笑の隙間から、上下揃った美事な歯並が覗き出した。なおその上、右上の糸切歯に金が被さっていた。普通は、糸切歯が虫に腐蝕されることは極めて稀であるが、彼女は真先に糸切歯がやられたのである。彼女にとってはそれが偶然の天恵だった。美わしい歯並の奥からぴかりと黄金色に光る糸切歯は、彼女の微笑みに云い知れぬ魅力を与えていたのである。それは兎に角として、この糸切歯から一枚飛んだ奥の下歯が、以前から虫に蝕されていた。時々痛み出すこともあった。然しいつもすぐによくなった。所が此度は、三四日たっても痛みが止まなかった。「あの晩からよ、」と彼女は云った。私は冷りとした。そして無理に歯医者へ通わした。
歯医者の言葉に依れば、その虫歯は可なりひどくなってるので、セメンをつめ金を被せるのには、二週間余りかかるとのことだった。その間彼女は、初めの一週間は毎日、後の一週間余は一日置きに、文字通り神経をすりへらす手術を受けなければならなかった。神経質な彼女はそれを非常に苦にした。出かける時には、つまらない用事に愚図々々こだわって、なるべく時間を後らそうとした。帰ってくると、眉をしかめながら碌々口も利かないで、数時間じっとしてることさえあった。それから非常に上機嫌になったり不機嫌になったりした。それがまた一々私に反映した。
九時頃に起き上る。もう朝食の用意は出来ている。私は急いで朝の身仕舞をする。然しそれはごく簡単だ。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃り、クリームを顔と頸と手先との皮膚にぬり、髪に櫛を入れる。それだけだ。然し秀子の身仕舞は中々済まない。第一に髪を結わなければならない。(感心に彼女は自分で髪を束ねて、決して人手を借りなかった。)次には長い長い御化粧が初まる。歯医者へ通うので殊に念が入るのだ。細いしなやかな指先を、顔や頸筋へ蛇のようにのたくらせながら、何時までも鏡台の前から立とうとしない。そのうちにみさ子が泣き出す。はるは座敷の掃除やなんかでまだ手がふさがっている。私は危っかしい手付でみさ子を抱いて、家の中をよいよい歩かなければならない。漸く秀子の身仕舞がすむ。彼女は鏡台の前に肌ぬぎになったまま、啜り泣いてる子供に乳房を含ませる。その間私はぼんやりして、縁側から狭い庭でも眺めるか、または寝床の中でざっと眼を通した新聞を、も一度読み直すかするより外はない。それから漸く食事になる。食事が済むと十一時に間もない。秀子は急いで歯医者へ出かける。午後は患者が込むので午前に出かけるのだ。然し随分帰りが後れることもある。みさ子が乳をほしがって泣き出す。私の危っかしい「よいよい」がまた初まる。子供は笑ってるかと思うと泣き、泣いてるかと思うと笑っている。その可愛いい口に唇づけすると、私の唇をちゅっちゅっと吸う。たまらなく可愛くなる。それでも、秀子が帰ってくると、私はすぐに子供を奪われてしまう。「おうよしよし。」と云って彼女は子供に頬ずりをする。私は黙ってそれを傍観するのだ。乳母を雇わないで自分の乳で子供を育てる彼女の気持ちが、私にも分るような気がする。それが私を苦々しい気分になす。そのうちにまた昼食だ。朝が遅いので、私達は昼に麺麭と牛乳とを取っている。所が秀子は、歯が痛いと云って牛乳だけを飲み、而も乳のためと云って二合近くも飲み、そのまま右の頬を掌で押えて、黙り込んでしまう。私は一人で淋しく麺麭をかじる。彼女は子供をはるに預けて、長く坐り込んで動こうともしない。それから俄に、上機嫌か不機嫌かがやってくるのだ。上機嫌な時には種々なことを饒舌る。歯医者の家で逢ったどこそこの奥さんが、こんなことを云ったとか、芸者がどんな着物を着て歯の療治に来ていたとか、今度みさ子を連れて伯父さんの家へ行こうとか、子供があっては芝居にも行けない――それも別に不平の調子でではなく至って殊勝な調子で――などと、いろんなことを云い出す。いい加減調子を合してるうちに、うつかり信用出来ないぞという気が私のうちに起ってくる。なぜか私は知らない。今に背負投げを喰うぞという気持が、暗々裡に私を警戒させるのだ。そして実際、その背負投げを喰うことも屡々ある。私が彼女の上機嫌に引込まれて、頑是ない子供にからかったり、彼女の乳房を弄んでる子供をいじめたりすると、「子供は玩具ではありません、」としまいに彼女は云い出す。彼女にとっては、私よりも子供の方が大事なのだ。子供は神聖な宝で、猥りに犯してはいけないものなのだ。……然しなおいけないのは、彼女が不機嫌になる時である。私が何か尋ねても碌々返事もしない。そして歯の手術の不愉快なことを、切れ切れな言葉で訴える。訴えた終りには、「みなあなたのせいですよ、よく覚えていらっしゃい、」と止めをさす。私が彼女を殴へりつけたという事実だけが、何時までも残っているのだ。二人が獣のように掴み合ったあの不快な光景は、彼女の頭から消え去ってるかのようである。然し私の頭からは消え去らない。僅かな機縁であの光景が私の頭に蘇ってくる。そして彼女に対する反感――というより寧ろ訳の分らない漠然とした憤懣の情が、むらむらと湧き上ってくる。然し彼女は平然と澄しきっている。最後の止めの一句を云ってしまうと、それで安心しきったように、然しまた凡てから暫く休らいだかのように、「少しお父さんに抱っこしていらっしゃい、」と云いながら子供を私の方へ差出す。「はるに抱かしたらいいじゃないか、」と私は答え返す。一寸諍いが起る。「あなたは子供に愛がないんだわ、」と彼女は云う。……ああ、何という無知な言であるか! 然し、私は彼女ほどは子供を愛していなかったのかも知れない。
斯かる反目の或る時――みさ子が泣きしきるのを私が知らない顔で放って置いた時、一寸台所に立って行ってた秀子は、急いでやって来るなりすぐにこう云った。
「あなた位勝手な人はない、私に怒ると子供にまで怒りなさるんだから。」
私は黙って答えなかった。明かにその通りだったのである。私は秀子に対して腹が立つと、子供に対してまで腹が立つのだった。彼女に対する憤懣の余には、子供に当りちらすことさえあった。私はそれが人の父たる態度ではないことを知っていた。然しどうも仕方がなかったのだ。……そして私に対する彼女の不満や反感は、其処から芽すことが多かった。
私の気分がどうであろうと、また彼女自身の気分がどうであろうと、彼女に取っては、みさ子は絶対的なものであった。
「私はどんなに怒っていても、子供にまで当り散らすようなことはしない!」それを彼女は矜りとしていた。その矜持の地点から、私を見下して軽蔑した。「あなたは私をヒステリー的だと仰言るけれど、子供にまで当り散らす所は、あなたの方がよっぽどヒステリーだわ。」
然し私には、彼女のような感情の使い分けは出来なかった。職業に対する見解の相違や(その当時私は気楽な職があったら勤めてもいいと思って二三の知人に頼んでいた)、隣近所との交際に対する意見の衝突や、広く道徳上の議論などに於て、互のうちに不融和なものを見出す時、私はいつも陰鬱な気分に沈んでしまった。彼女も口を噤んで反抗的な態度を見せた。そういう時でも彼女は、子供に対してにこやかに笑いかけ、少しもわだかまりのない愛撫を示した。私は冷然とそれを見やった。彼女は私の心を見て取って、わざわざ子供を私の方へ差し出したりした。それは私の気分を和らげんがためではなく、子供を武器として私を頭から圧倒せんがためであった。私がなお冷然と構えていると、彼女は一寸皮肉な微笑とも苦笑ともつかない影を、口元に漂わせた。如何に私が反抗しても、最後の勝利は自分にあると確信しているのだ。それが私は癪に障った。子供が母親の膝の上で、そして私のすぐ眼の前で、訳の分らぬ音声を二三言発しても、声を出して笑っても、急にわっと泣き出しても、私は平然として見向きもしなかった。彼女も遂に我慢をしかねた。私を圧倒せんがための武器は、直ちに神聖なる宝と変った。その宝を軽蔑したという見地から彼女は私を攻撃してきた。
「あなたはこの児を誰の児だと思っていらっしゃるの。まるで他人の児のような態度をなさるのね。」と彼女は云い立てた。
「僕とお前との児だ! 然し……。」
私は先を云い続け得なかった。私が彼女を憎く思う時には、子供をも同時に憎く思う時であった。彼女に対する憤懣の念を、私は子供にまで押し拡げないではいられなかった。秀子は一寸の隙を見て、親戚や友人の家を訪れることがあった。私はよくその留守居の役を勤めてやった。所がともすると、彼女の帰りは予定よりも延びた。子供は乳を欲しがって泣き出した。初めはるがお守りをした。夕方近くなると、はるは食事の仕度にかかって、私が子守りをした。綺麗なセルロイドの風車を見せたり、護謨の乳首を含ましたり、庭に出たり、座敷の中を飛び廻ったりしたが、しまいには万策つきて、子供を泣くままに任せるより仕方がなかった。秀子は中々帰らなかった。私は憤ろしい心地になっていった。乳の時間も忘れて何処で遊びほうけているのか。子供を愛してると云いながら、子供に空腹の叫びを立てさして平気でいられるのか。……私は怒りで胸が一杯になってきた。そして、彼女に対する怒りで燃え立っている私は、泣き叫ぶ子供に対しても、訳の分らない腹立たしさを覚えてきた。子供を其処に投げつけたくなった。それをじっと我慢しながらも、やけに子供を揺り動かした。子供は更にひどく泣き出した。……秀子は玄関から荒々しく戻ってくる。そして私の手から子供を抱き取る――奪い取る、その眼付には、遅くなって済まないという色は少しもない。子供を泣かしたことを私に責める色ばかりである。私は黙然として、その母と子とに激しい敵意を覚える。そして、醜い反目が初まるのだった。