その時、ずらりと立並んで重り合ってる人々の中から、麦藁帽に浴衣がけの、背の高い肩幅の広い男が、ぬっと出て来て、いきなり彼野口昌作の肩を引掴んだ。
「ふざけるな、降りちまえ!」と男は底力のある大声で怒鳴って、首を車掌の方へ振向けた。「君は正直に職務を執行しとるんだろう。規則通りに注意してやっとるんだろう。それを、酔っ払って何だと思ってるんだ!」と云いながら彼はまた野口昌作の方へ向き直った。「愚図愚図しないで、降りちまえ。この通り人の邪魔だ。降りた上で俺が相手になってやる。」
野口昌作は咄嗟に口が利けないで、眼をしぱしぱやった。そして口を聞くまもなく、麦藁帽の男の強い力に圧せられて、突き落されるように街路へ降り立った。その前に男は、両腕を胸に組んでつっ立った。
「先刻から黙って聞いておれば、何だ貴様は、車掌がおとなしく下手に出とるのに、いやに図に乗って、立派な職務妨害だぞ。喧嘩の相手がほしければ、俺が相手になってやる。さあ云い分があるなら、云ってみろ。」
もう周囲にはぐるりと人が立並んでいた。「やれやれ!」という声も聞えた。電車の前方から、も一人の車掌と運転手とが降りてきた。木原藤次は少し離れて、手短かに事の顛末を述べていた。人々の気持が緊張して尖っているのが、その顔付にありあり見えていた。野口昌作は意外の敵に面喰って、あたりをじろりと見廻したが、その時何かしら彼の心に、どっしりこたえたものがあった。自分の方に好意を寄せていない群集の好奇心から来たものなのか、或は、自分より幾倍も強そうな相手の男の腕っ節から来たものなのか、或は、人だかりのしてる街路のざわめいた物影から来たものなのか、何れとも分らなかったが、兎に角それがどっしりと彼の心へのしかかってきた。彼は無理にそれをはねのけようとする気で、我を忘れて一二歩進み出た。
「何だ貴様は、横合から飛び出してきて、失敬な、其処を退け!」
「何を! も一度云ってみろ。馬鹿!」と男は頭から怒鳴りつけた。「乗り降りの客の邪魔をしといて、おまけに車内で煙草を吸おうとしたくせに、あべこべに車掌へねじこんでいったのは、皆が見てる通りだ。生意気な風をしといて、酒のせいだとは云わせないぞ。逃げたければ、車掌に謝った上で逃げ失せろ。謝るまでは其処を一寸も動かさぬから、そう思っとるがいい。……おい車掌は何処へ行ったんだ?」
然しその時木原藤次は、も一人の車掌と運転手とに何やら囁かれて、もう電車に乗ってしまっていた。そして、好奇心に駆られてる数名の乗客を残したまま、電車を走らせ初めた。それを麦藁帽の男は見送って、呆気に取られたように佇んだ。
野口昌作は殆んど本能的に、その隙に乗じた。
「見ろ、間抜め! 貴様なんかを相手にする奴があるものか。」
云い捨てて彼は、二三歩其処を遠退きかけた。
男はその声にぎくりとして向き返ったが、横風に歩き出してる野口昌作の横顔を見ると、太い眉根を震わして両の拳を握りしめた。野口昌作はその気配を感じて、一寸足を止めながら、ちらと横目を注いだ。
「待て!」と男は叫んだ。
声の調子の真剣なのに気を打たれて、野口昌作は其処に立止ったが、相手の一喝にひるんだ自分自身を、無理に引立てるようにかっと唾を吐いて、また一歩足を踏み出した。瞬間に、唾を吐いたのはいけなかったと思うと同時に、右肩を掴まれたのを感じた。
「何をするんだ!」
思わず声が先に出て、そのために我を忘れて、右の靴先で相手の向う脛を蹴りつけてやろうとした。その足先が空に流れた途端、彼はがーんと左の横面に拳固の一撃を受けた。眼がくらくらとして、ほんの一瞬の間、白い歯をむき出してる小さな人の顔が見えた。おやと思って立直ると、すぐ眼の前に、白い服と劒の鞘とがあった。
「まあお待ちなさい。」
二度目の拳固を振上げた男の腕を、巡査が支え止めていた。
そして三人は、麦藁帽の男は野口昌作を睥みつめ、野口昌作は巡査を惘然と眺め、巡査は麦藁帽の男を見上げながら、一二秒の間そのまま立ちつくした。
野口昌作を殴りつけた、麦藁帽に浴衣がけのこの正義派は、城北中学校柔道師範、講道館二段の免許を有する、高倉玄蔵という三十歳に満たない青年だった。その城北中学に、年老いた漢文の教師がいた。頭は古くて偏狭だったが、自分に信ずることは一歩もまげないという、清廉硬骨の老人だった。新しく校長となった文学士と、いつも折合が悪かった。そして何処からともなく、学期が済んで休暇になり次第免職されるという噂が、確かな根拠もなく伝わっていった。その噂に人一倍憤慨したのは、老教師の人格を尊敬している高倉玄蔵だった。彼は学校で噂をちらと耳にしてから、夕食の折五六杯の酒に赤くなりながら、人の善い細君を相手に悲憤慷慨した。そして細君の同感ではなお物足りなくて、退職将校で体操の教師をしている同僚の家を訪れ、二人で大に校風の頽廃を論じ合った。然し結局の所、漢文の老教師の免職云々は、単なる噂に過ぎなくて、それについての対策を立てるなどは、早計な馬鹿げたことであるばかりでなく、直接自分と関係のない余計なことに思われてきた。彼は充ち足りない心を懐いて帰ってきた。自分自身が軽率で愚かであるような気もした。そしてまたその反動として、或る漠然たる正義観念で胸が脹れ上った。電車の中にどっしりと腰を下して、両肱を膝の上に張りながら、世風を慨するといった眼付で、自分の愚かさを自らごまかす気味も加わって、あたりを睥め廻していたのである。そこへ、野口昌作と車掌との事件が起ってきた。
高倉玄蔵にとって第一気に喰わなかったことは、野口昌作の才走った屁理屈だった。次に気に喰わなかったのは、人造絹のネクタイに光ってる、彼のネクタイピンだった。新月形の金に星を象ったダイヤを加えてる、いやに女々しい趣味のものだった。それにちらと眼を留めた時から、彼の正義観念は反感の色に染められていった。我慢出来なくて遂に野口昌作を突き降してしまった。そして勝利の念で一杯になってる時、電車と車掌とに逃げられてしまい、惘然とした瞬間から我に返ると、もうそのままでは自分の体面が保てない気がして、その上腕がむずむずしてきて、思うさま相手を引叩いてやった。ただ不幸なことには、野口昌作の方が先に蹴りつけようとしたことを、彼は不覚にも気付かなかった。そして巡査から腕を支え止められて、一寸弁解の辞に窮した。
「乱暴はお止しなさい。」と巡査はきっぱり云った。
高倉玄蔵はおとなしく手を下したが、まだぼんやりつっ立ってる野口昌作の方を顧みて云った。
「貴様のような卑劣な奴には、鉄拳が相当しとるんだ。」
「まあいいです。」と巡査は彼を制した。「穏かに話せば分ることでしょう。一体どうしたのですか。」
高倉玄蔵はその時、巡査がまだ何も知らないでいることを見て取った。そして自分の行為を弁護する口実を見出した気で、初めからのことを説明した。所が車掌に逃げられたあたりになって、ひどくまごついてしまった。それをむりやりに云い進んだ。
「車掌を引留めておいては、他の乗客の迷惑になると思って、すぐに発車さしてやった。所がこの男まで一緒になって逃げようとするから、引据えたのだ。」
「嘘を云え。」と野口昌作は俄に元気づいたかのように、初めて口を開いた。「貴様は車掌を取逃した口惜しまぎれに、俺を殴ったのだ。車掌の方も悪い点があるからこそ、逃げ出してしまったじゃないか。さあ貴様は、俺に無法な拳をあてておいて、この始末は何とする? 謝罪しろ、すぐに謝罪しろ。」
「まあ静になさい。」と巡査は言った。
「いやこのままで済せるものか。人の頭を殴っておいて、一言の挨拶もなしに、それでよいかどうか、考えてみ給え。君で分らなければ、警察に同行するまでのことだ。……おい、何とか云ってみろ。何で黙りこくってるんだ。」
そして彼は、高倉玄蔵の方へつめ寄って行った。
高倉玄蔵は、車掌の逃亡をうまく云いくるめられて、太い眉根をぴくぴくさしていたが、今相手につめ寄って来られると、我を忘れてまた右手を振上げた。それを巡査に支えられた瞬間、彼は左手を差伸して、野口昌作の襟に手先がかかるや否や、ぱっと足払いにいった。それが見事にきまって、野口昌作は仰向にひっくり返った。
「暴行をするな。」と巡査は叫んだ。
「何が暴行だ?」と高倉玄蔵は鸚鵡返しにした。「こんな奴はひどく懲らしめておくが至当だ。こういう軽薄な屁理屈屋がのさばるから、世の中が害される。貴様まで此奴に瞞着されて、それで警官が務まると思っとるのか。顔を洗って出直して来い。」
巡査はぐいと彼の手首を捉えた。
「暴行を働いた上に暴言を吐くのか。よし、本署まで同行するから、一緒に来い。」
「なに、俺を警察へ……行ってやるとも。後で後悔するな。さあ来い。」
そして高倉玄蔵は、先に立って一歩ふみ出したが、その時、群集の中からちらと、見覚えのある顔が見えたような気がした。で足を止めて、周囲に立並んでる人垣を、じろりと見廻したが、もうそれらしい顔も見当らなかった。けれども、そのことが彼の頭に一片の思慮を送った。この群集の中に、学校の生徒などが交ってるかも知れない、と思ったのをきっかけに、学校……教職……体面……などということが浮んできて、警察に引かれるという汚名が、はたと胸にきた。進退に窮した形で、其処にじっと佇んだ。
「何を愚図ついているのだ?」と巡査は促した。
それを高倉玄蔵は耳にも入れなかった。地面に眸を据えたまま、暫く考え込んだ。とふいによい考えが浮んだ。相手の男を同行しさえすれば、自分の名分は立つ訳だ。
「此奴も一緒に引張って行って貰おう。」と彼は云った。
「無論だ。」と巡査は応じた。
そして二人は、其処に起き上ってつっ立ってる筈の野口昌作の方へ向き返った。所が其処には誰もいなかった。見廻しても姿さえ見えなかった。二人は茫然とした。