中野さんには、喜代子という美しい姪があった。中野さんの末の妹の嫁入った武井某の娘だった。
中野さんと喜代子の母とは、母親が違うせいもあったし、年齢も可なり違っていたし、余り仲がよくなかった。その上、中野さんは富有で羽振のいい方だったし、武井の方は零落した貧しい生活をしていたので、両家の交誼はごく疎遠なものだった。それでもやはり、中野さんにとっては、喜代子が美しい姪たるを妨げなかった。
喜代子は時々――といっても二ヶ月に一度くらい――中野さんの家にやって来た。
中野さんには大勢子供があった、男の子や女の子が。そして皆、中野さんに似て不綺麗だった。その中に交ると、喜代子は一段と美しく見えた。
中野さんは美しい喜代子を好きだった。生れて一度も剃刀をあてたことのないような、すっと一の字に引かれた眉、白い頬に浮出してる長い揉上の毛、真黒な房々とした髪――無雑作に取上げて後頭部でくるくると束ねた、両手に握りきれないほど多量な髪、どれもみな、処女眉、処女揉上、処女髪だった。そして、それにふさわしい眼付と顔立。彼女を見ると中野さんはいつも、赤い粗らな髯の下の大きな口付を他愛なく弛めて、独り嬉しそうににこにこしていた。
そして不思議なことには、中野さんは一度も喜代子の結婚について考えたことがなかった。喜代子を自分の子供の誰かに貰ってやろうとか、またはいいところへ世話してやろうとか、そんなことはまるで忘れてしまっていた。喜代子はもう学校も卒業しているし、年も十九になっていたが、中野さんにとっては、いつも、そしていつまでも、無邪気な処女だった。
三月はじめの或る日曜日に、喜代子は菜の花を沢山持ってやって来た。そして座敷の床の間の花瓶にそれを生けようとした。がどうもうまくゆかないらしく、しまいには変にじれ出してしまった。
それが中野さんには面白かった。が中野さんはもっともらしい口の利き方をした。
「菜の花だけを生けようったって無理だよ。何かしんになるものがなくちゃあ……。」
「いいですわ。」と喜代子は不機嫌そうに答えた。「あたし菜の花の畑を表現してみるつもりなんだから。」
「表現はよかったね。」
だが中野さんの調子は、少しも皮肉ではなく嬉しそうだった。
「ええ、表現するのよ。」と喜代子は平然と云ってのけた。「暖くなったらあたし、菜の花ばかり咲いてるところに行ってみるつもりなの。」
「そんなところがあったかな、東京の近くに……。」
それきり喜代子は黙り込んで、どうにか菜の花を生けてしまった。
その室咲きの余り匂わない菜の花を見い見い、中野さんは大きな紫檀の机に向って、いい気持で、調べ物の続きをやりだした。
喜代子は向うの室で、小学校に通ってる末の子供達の相手になって、その試験準備をみてやっていたが、暫くすると、勉強の方はそっちのけにして、皆できゃっきゃっと遊び初めた。年上の方の娘までそれに加った。騒々しい笑い声の間々に、喜代子の澄んだ朗かな声が高く響いた。
中野さんは調べ物に気がはいらなくなって、日向の縁側に出て、ぼんやり庭の方を見ていた。植込の落葉樹の芽がふくらんで、地面は湿気を帯びて黒々としていた。
そこにひょっこり喜代子が出て来た。
「今日はばかに賑かだね。何か嬉しいことでもあるらしいね。」
「ええ……。」
言葉尻を濁してから、喜代子はふいに真面目な顔付になった。二つも三つも年が上のようになった。
「あたし……叔母さまが生きていらっしゃるとほんとにいいんだけれど……。」
「え、叔母さまが……。」
中野さんはびくりとして、喜代子の顔をみつめた。
「だけどいいわ。本当はお話があるんですの。叱らないで頂戴ね。」
「何を云うんだい、だしぬけに。叱りはなんかしないから、話があるなら云ってごらん。」
「今じゃないの。も少したってから……。」
伏せてた顔をふいに挙げて、じいっと見入ってきたその眼が、黒水晶のように底光りしていた。中野さんはまたびくりとして、一寸口を利きかねた。その間に、喜代子は黙って向うへ行ってしまった。
子供達はまた一しきりはしゃぎ続けていた。それが次第に静まっていった。
「どうしたの、喜代子さん。いやな人ね、考え込んでばかりいて。」
云ってるのは年上の娘の静子だった。
その静子が、後で中野さんにこんなことを云った。
「可笑しいわ、喜代子さんは。ふいに騒ぎだしたり、また黙り込んだりして、眼に一杯涙をためていらしたの。どうなすったんでしょう。」
中野さんにも腑に落ちなかった。黒水晶のような眼の光が、中野さんの頭の中に何度も浮んできた。
五月から六月へかけて、中野さんは会社の用件で満州の方へ旅をした。その旅行中に、意外な事件がもち上った。
喜代子には幾つも縁談がかかっていた。それを喜代子は両親から相談される度毎に、一言のもとにはねつけていた。所がその春非常によさそうなのが一つあった。帝国大学の病院に助手をしてる医学士で、家柄もいいし人格も高いし、将来有望な才能だということだし、博士論文の種を研究中の由だった。両親は可なり気乗りがした。喜代子はまだ結婚を急ぐほどの年齢でもなかったけれど、一つ年下の妹があった。それやこれやで、両親もしまいには度々喜代子に承諾を勧めた。然し喜代子はいつもきっぱりはねつけた。するうちに、喜代子は突然家をぬけ出して、笹部という余り有名でない詩人と同棲してしまった、というのである。喜代子はその男と以前から恋仲だったらしく、後で考えてみれば、度々怪しい手紙が来たこともあるし、中野さんの家に行くと云って出かけては、屡々外で逢っていたらしかった。
滅多に顔を見せたことのない喜代子の母は、自分で中野さんの家にやって来て、仕末に困って相談をもちかけた。
「私達もうっかりしていました。ふだんあんなに無邪気そうにしていたものですから、こんなことを仕出かそうとは、夢にも思わなかったのですよ。」
「そりゃあ誰だって……。」と中野さんは答えた。
「一度家に戻って来てくれるといいんですが、家に帰るくらいなら死んでしまうと云うし、その男がまた、私達は生命がけで……だなんて云ってるそうですから、もし無理なことをして万一のことでもあったらと、それも心配になりますしね、どうしたものか困ってしまったのですよ。それかって、このまま放っておくわけにもゆきませんしね。世間の口もうるさいし、もし新聞にでも出るようなことになったら、愈々恥を世間に曝すようなものですし……何かよい工夫はないものでしょうか。」
中野さんはその話を初め聞いた時にも、別段驚きはしなかった。驚かないどころか、何だか夢のようなお伽噺でも聞いてる気がした。それが自分でも一寸不思議な心地だった。そして、黒水晶のような眼の光をまた思い出した。
「じゃあその男と一緒になさったらいいでしょう。」と中野さんは落付いて云った。
「それが、まだ血統も何も分りませんし、詩を書く人だというきりで、下宿屋にごろごろしているというんですからね。」
「血統なんか調べたらすぐに分るでしょう。それに、詩人なんてものは、今日は下宿屋に転っていたって、明日は天下に名を知られるようになるかも分らないから。」
「へえー、そんなものでしょうか。」
「とにかく、その男と一緒になさるのが一番よい策でしょうね。」
「あなたがそんな考えだろうとは、思いもよりませんでしたよ。ほんとにわたしは、途方にくれてぼんやりしてしまって……。」
中野さんも実はぼんやりしているのだった。中野さんはどうかすると、ひどくぽかんとすることがあった。そしてそういう時、よく思い出す一事があった。
まだ中野さんが十歳くらいの時のことだった。実母が死んで若い継母が来ていたが、その新らしい母に対して、彼は実母に対するのとは全く違った気持でなつかしんでいた。喜代子の母が――二つばかりの赤ん坊だったが――胸に抱かれて乳を飲んでるのが、妙に羨ましく妬ましかった。そんな気持から、或る時ひどい悪戯をした。若い母はいつも日本髪に結っていて、鼈甲だの珊瑚だの瑪瑙だの、その他いろんな美しい玉のついた、種々の髪の道具を持っていた。彼はそれをそっと盗み出して隠しておいた。母は大騒ぎを初めた。漸く髪の道具は袋戸棚の中から見付ったが、彼は素知らぬ顔をしていた。そして翌日またその悪戯をくり返した。そこで彼の仕業だということが分った。母は乱れた髪のまんまで、彼を人のいないところへ呼んで、叱ったり歎いたりした。自分の産んだ子供と彼とを分け距てしてはいないだの、彼をも心から可愛く思ってるだの、何が不足で私をいじめるだのと、眼に涙を一杯ためて説ききかせた。聞いてるうちに彼は無性に悲しくなって、母の膝に取縋って泣き出した。それから、膝の上に抱き上げられて、泣きながら見上げた母の顔が、非常にやさしく美しく、神々しくさえも思えた。で彼はまた母の胸に顔を埋めて、震えながら泣き出した。
それを思い出す気持が、喜代子のことと何の関係があるかは分らなかった。いやそれは、喜代子のことなんかよりも、細君を亡くして多くの子供をかかえながら、未だに後妻を迎えないでいることの方に、より多く関係が深かったかも知れない。がとにかく中野さんは、喜代子の母親を――その当時の赤ん坊を――前にして、ぼんやりそんな変なことを思い出しながら、晴れやかな美しい幻を見たのだった。……あの美しい処女喜代子が生命をかけて恋している。相手の男はそれにふさわしい美しい人である。今は下宿の陋室にくすぶっているが、やがては二人の恋愛から……。
喜代子の消息は、それきり中野さんの耳へは余り達しなかった。勿論喜代子はやって来ないし、中野さんの方から武井家へ出かけてゆきもしなかった。
夏の暑い盛りになると、例年の通り、中野さんは家族連れで常陸の海岸へ行った。高等学校へ通ってる上の子は、友人と登山の旅に出かけたので、静子と中学二年の子と小学校へ行ってる二人の娘と、女中を二人連れて行った。