「わたしは、暗いところでばかり……薄暗がりの中でばかり、物を考える癖がついていた。それで、死人と云えばみな、曇った日か雨のしょぼ降る日か……陰欝な空気の中にしか考えられなかったのですが、実は……。」
「日射病で倒れる兵隊と同じだと仰言るんでしょう。」
「ええ、そうです。……あなたは死人を見たことがありますか。」
「いいえ。」
「一度も。」
「ええ。」
「それじゃ私の話がよく分らないでしょう。」
「………」
「あなたは笑っていますね。」
「いいえ。」
「だって……。」
「あたし、変なことを思い出して……。」
「どんなことです。」
「あなたから、来るって手紙が参った晩でした。あたし嬉しいのか悲しいのか分らなくなって、じっとしておられなくなって、何でも手当次第に物を投り出したいような……変な気持になってしまったの。見ると、電燈のまわりに、沢山虫が飛んできてるでしょう。それをあたし、電燈の笠の中に……深い笠ですのよ……その中に紙で封じこめてやったの。甲虫や小さな蛾や羽の長い蚊なんかでしたが、それが、笠の中でぶんぶん飛び廻るのを見て、あたし夢中になって……。」
「殺してしまったんですか。」
「独りでに死んでしまったんですの。死ぬまで封じこめてやったんですの。」
「あなたが。」
「ええ。ぞっとするような……もう夢中だったんですもの。」
「………」
「妹が見て、喫驚していました。だけどあたし、ただ……あなたがいらっしゃる、あなたがいらっしゃる……とそのことだけに一心になっていて、そのうちに、電燈の笠の中は熱くなって、一生懸命に飛び廻ってた虫が、ぱたりぱたりと紙の上に落ちて死んでしまったんですの。」
「電気の光にやられたんですね。」
「そうでしょうか。」
「余り光が強すぎると死ぬんです。人間だって、太陽を三十分も見つめてると、昏倒して死んでしまうそうです。」
「では、あたし……。」
「やってみますか。」
「………」
「あ、……そのあなたの笑顔がわたしは好きです。じっとして……。」
「何だか嬉しいんですの……心から……。」
「………」
「ねえ、あなたは決心していらしたんでしょう。」
「………」
「こちらにいらっしゃる前に……。」
「万一の場合の用意はしていました。」
「万一の場合って……。」
「あなたの手紙にあったじゃありませんか。」
「あたし、あの時はほんとに思いつめていたんですの。」
「今は……。」
「今も。」
「今も……。」
「ええ。だけど……嬉しいんですの。どうしたらいいか……。」
「じゃあ……わたしが……。」
「………」
「わたしは短刀を持って来たんです。それを……あなたに上げましょう。」
「短刀。」
「ええ。遅く何度も取出して眺めたものです。けれど、もうあんなものは……。」
「あたし、頂いておくわ。本当に下さるの。」
「上げましょう。」
「嬉しい。」
「どうします。」
「大事にしまっておくの。」
「屹度……。」
「………」
「また笑っていますね。どうしたんです。」
「どうもしませんわ。」
「だって……。」
「しっかりつかまえてて頂戴。あたし何だか、変な気持になったの。夢でもみてるような……。」
「………」
「あら、いつのまにか兵隊が。」
「もう通ってしまったんでしょう。そして何もかも……。」
「何もかもって。」
「わたしも夢をみてるような気持がします。そして……死んだ後のような……。」
「………」
「丁度こんなでした、友人が死んだ時も……。」
その友人は、急性腎臓炎で、十日ばかり病院にはいっていたが、経過がよくなく、遂に心臓麻痺で死んだのだった。
前日から容態が険悪だったので、その晩見舞に行って、夜通しついていてやった。病室には、郷里から出て来た母親と伯父と、看護婦きりだった。
尿毒症の昏睡状態から、暫く軽い狂燥状態が続いて、それから夜中の三時頃、心臓麻痺でやられてしまった。
伯父は夜明けに出かけていった。後の三人は病室の片隅に黙然と坐り続けていた。涙を流しつくした後の、呆然とした顔付だった。
拭き清められて白い布に被われた死体は、寝台の真中に横臥していた。胸部も腹部も薄べったくなって、空気のぬけたゴム枕のように見えた。がじっと見ていると、今にもその胸のあたりがふくらんできて、ほーっと息をつきそうに思えた。いや現に、かすかに息をしているようだった。
苦しいだろう……というような気持で立っていって、顔の白布を一寸取りのけてやった。瞬間に、凡てがしいんとなって、死体は薄べったく静まり返った。眼が落ち凹み、鼻が尖り、唇が歯にくっついて閉じていた。すっかり色艶を失った顔全体に、何だか蜘蛛の糸ででも出来てるような、あるかなきかの半透明な膜が被さっていた。額に手をやると、骨のしんまで伝わってくる底知れぬ冷さだった。
けれども、顔に白布を被せて、少し遠退いて眺めていると、やはり、死体は今にもほーっと息をしかかってるかのように見えた。母親もじっとその方を眺めていた。
そして長い時間がたっていった。何かをしきりに考えているようなまた何にも考えていないような、忘我の気持に落ちこんでいった。それからふと気がつくと、いつのまにか、東の窓掛の隙間から、赤々とした光がさしていた。見るまにそれが輝かしい光線となって、室の中を横ざまに流れた。
嘗て見たこともない赤い晴々とした光線だった。それが、陰気にむすぼれ淀んだ病室内の空間に、くっきりと浮出して、東の窓掛の隙間から西の壁の面へ、横ざまに流れていた。その下の暗がりに、死体は静に横たわっていた。もう息をしそうにもなく、固くこわばってしまっていた。
全く死んでしまったのだった。死んで消えてしまったのだった。其処に横たわってるのは、もう彼ではなく、ただ骨と肉との冷たい物質だった。その上の空間に、一筋の朝日の光だけが、如何にも晴れやかに輝かしく、くっきりと浮出していた。
窓掛を開くと、ぱっと朝日の照ってる爽かな明るみだった。
「なぜ泣くんです。」
「………」
「泣いちゃいけません。笑って下さい……。あなたには、笑顔が一番ふさわしい……。」
「そして、あなたにも……。」
「え、本当ですか。」
「ええ。」
「わたしはこの通り微笑んでいます。」
「あたしも。」
「笑いましょう……。いつまでも微笑み続けましょう。ね、二人で……。」
「あたし……何だか……眼がくらむような……。」
「余り日が照ってるからです。余りぎらぎらした光が強過ぎるからです。けれど……ね、いいでしょう。」
「ええ、どんなことがあっても……。」
「どんなことがあっても……。」
「あたし、いつも笑ってるわ。」
「そうです。」
「あら、あなたは、涙ぐんで……。」
「いいえ、何でもないんです。嬉しいんです。」
「もう何にも考えないの。」
「そして……ただ一つだけ……。」
「ええ、一つだけ、ただ一つだけよ。」
「………」
「ねえ、歩きましょう。あたし、じっとしてると、何だか恐い気がしてきたの。日向を歩くの……丘の上をぐるぐる歩き廻るの。」
じりじりと真夏の日が照りつけていた。どこを見ても、眼が眩むほどぎらぎらしていた。遠くに海が光っていた。