彼はまた、ククク……と独笑いをした。
三
ふうわりと土を被せた古井戸の跡は、降雨の度に少しずつ凹みながらも、もう穴を開くようなことはなかった。そして円い自然石だけが、荒れた庭の真中に、得意然と構えていた。
彼はいつしか、古井戸のことを忘れかけた。ところが、その秋の或る夜、怪しい夢をみた。
――何処だか分らない、或る床の高い縁側に腰掛けていた。前は広々とした庭で、築山や植込の模様から配石の工合まで、昔の大名の屋敷を思わせるものがあった。その庭の真中に、井戸があった。おや、と思って見たとたんに、井戸の真上に、車巻の枠の上に、若い女が腰掛けている。着物は分らなかったが、高島田に結った綺麗な女で、彼の方を見てにこにこ笑っている。お転婆な女だなと思って、彼は二口三口からかいかけた。何と云ったのか文句は覚えていないが、女がなおにこにこしているので、次第にひどい悪口を云い初めた。するうち、女は俄にきりっと眉を逆立てて、「何を!」と男のような声で怒鳴りつけて、井戸枠からするすると下りて、真直にやって来る。彼は逃げようとしたが、どうしても身体が動かない。もう女は眼の前にやって来て、彼の着物の襟を掴んで、締めつけ初めた。馬鹿に大きな力で、大磐石にでも押えつけられたようで、いくら踠いても、身動きさえも出来なかった。女はなおも襟元をしめつけながら、ぐいぐいと押してくる。彼は縁側の柱に押しつけられ、息がつまり、身体がひしゃげ、苦しさにむーとこらえた、とたんに、ほーとして眼が覚めた。
身体中にねっとり脂汗をかいて、手足が痺れていた。がそれよりも更に不思議なのは、夢に見た光景が一々、覘眼鏡ででも見るように、実物以上の透き通った明瞭さで、まざまざと頭の中に残っていた。庭の有様、車井戸、井戸枠に腰掛けてる高島田の女、その女がすーっと下りてきて襟を締めつけたこと、それが一々、陰影のない明るさで浮び上っていた。ただ、庭以外のことと、女の首から下とだけは、何にも分らなかった。
彼は怪しくぞーと寒けがして、起上って電燈をつけた。室中がぱっと明るくなったが、その光の届かないどこか奥深い暗闇の中に、庭や車井戸や女のことが、くっきりと浮出していて消えなかった。
それでも彼は、家の人達を呼び起すのも不甲斐ないと、不気味なのをじっと我慢して、とうとうその夜を明かしてしまった。
いつもと違った、余りにはっきりしてるその夢が、長く彼の頭につきまとった。庭の古井戸と結びつけて考えたりしたけれど、自分でも馬鹿馬鹿しくなって、誰にも話さなかったが、やはり頭の底に始終気掛りなものが出来て、それからは電燈をつけたまま寝ることにした。
それが、忘れるともなく薄らいでいった、年を越して春のこと、彼は二三の友人と芝居を観に出かけた。番組の中に皿屋敷があった。その一幕を見て、彼はまた夢のことをはっきり思い浮べた。
まではまだよかったが、幕間に酒を飲みながら、話は皿屋敷の故実から、昔の大名の行跡にまで及んでいった。その時、友人の一人が、変な話を彼に聞かした。
「……そんなら、丁度君の下宿のあたりだよ。あの辺に、昔或る旗本の屋敷があってね、それがまた癇癖の強い乱暴な男だったらしい。或る時、子供を守りして一人の女中が庭で遊んでいた。そしてどうしたはずみか、その子供が、庭井戸の中に落っこって死んでしまった。あの皿屋敷の井戸のようなやつで、昔の広い庭にはよくあったものだ。さあ主人の立腹ったらない。女を縛り上げて、井戸の側に引き立てて、お前がこの中に子供を落したんだな、お前が落したんだな……と云いながら、女の頭をむりやりに井戸の中にさしつけて、責めさいなんだ揚句、抜打にすぱーりと、その首を井戸の中に切り落した。それからは、その井戸に何か変異があるとか、僕の祖母が、僕がまだ小さい時、詳しく話してきかしたものだが、そんな他愛ない話は、祖母が死ぬと、一緒に忘れてしまった。然しとにかく、召使を手討にするなんか、昔の大名は平気だったらしいね。」
彼はぎくりと胸にこたえて、暫く友人の顔を見守っていた。
「その、何とか云う旗本の屋敷は、僕の下宿のあたりにあったのかい。」
「さあ、うろ覚えなんだが、祖母の話ではたしか、町名や番地など、どうもそうらしいよ。……何だい、変な顔をするじゃないか。何か出るのかい。」
「出やしないが……。」
「ははは、出たらお慰みだ。皿屋敷なんかより、その方が本物で面白いわけだがね。」
一笑に付されてしまって、彼は夢のことを云い出しそびれた。
然しそれがひどく気にかかった。後の芝居は見る気もなくぼんやり眼をやってるだけで、しきりに夢のことや友人の話が考えめぐらされた。話を聞いてから夢にみることは、世にありそうだが、話をきかない前にそれと符合する夢をみることは、滅多にあるものではない。その上、いやにはっきりした不気味な夢だった。ばかりでなく、掘り返した古井戸の跡や、あの変な自然石など、考えれば考えるほど、怪しい糸がもつれていった。
そして、その晩も、翌日も、変梃な気持で過した。庭の方を見ると、円い自然石が、植込の茂みの葉裏のせいか、茫と青白く光ってるようだった。そして古井戸の跡は、一面に四五寸ほども落ち凹んで、もう苔生して、くっきりと円い形を現わしていた。
「何をぼんやり考えこんでいらっしゃるの。」
そう云って縁側に屈みこんでる彼の方を、房子が覗きこんできた。
その、眼の光の鈍い善良な顔付を見て、彼はふと、凡てを彼女に打明けてみる気になった。
「まあー。」
呑気そうな彼女の顔が一寸固くなった。
「ですが、何処のことだかよく分らない昔話と、ただ一度の夢とだけですから、或は気のせいかも知れません。」
「けれど、そう云えば、あの石だって何だか変ですわね。……どうしてあんな石を、庭の真中に据える気になったのでしょう。」
「いえ、あの石だけなら、面白いじゃありませんか。……いや屹度、気のせいかも知れません。こんな話は誰にも内緒にしといて下さい。うっかり話して、人の笑い草になっちゃつまりませんから。」
「ええ、それはもう、どなたにも話しはしませんけれど……。」
「変な時に、お菊の芝居なんか、とんだものを見たものです。」
そう云って、彼は初めて苦笑した。実際、彼女に打明けてしまったので、胸が晴れたような気持だった。
四
それから二週間ばかりたった午後、一人の男が階下に訪れてきた。松木が不在だったので、房子が暫く応対をしていたが、やがて二人は庭に出て、古井戸のあたりで立話を初めた。黒っぽい銘仙の着流しに、古縮緬の兵児帯をまきつけた、ひょろ長い半白の老人だった。
彼は二階で書物を読んでいたが、古井戸の辺の話声に、何だか気掛りになってきて、それとなく様子を見に降りていった。すると、縁側に腰掛けてた老人につかまった。
老人は家作の差配人だということが、話の調子で彼にも分った。初めは何気なく彼に言葉をかけておいて、つまらないことで彼を引止めてから、遠廻しに徐々と、古井戸の方へ話を向けていった。その側で房子が、何だか落付かない様子で、しきりに彼へ目配せをしたが、彼はその意を察しかねて、いい加減の返辞をしているうちに、ふと、意外なことが老人の口から洩らされた。娘の光子が、屡々悪夢にうなされるというのだった。
「え、何ですって、光子さんがうなされるんですか。」
彼の喫驚した言葉に、房子ははっとして顔を伏せてしまったが、老人は切れの長い眼で、彼の顔色をじろりじろり窺い初めた。
「いえ、なあに、古井戸の跡だときいて、一寸夢をごらんなすったまでのことで、子供にはありがちのことですからなあ、御心配にも及びませんと、私から今もそう奥さんに申上げてるような次第で……。」
「そうです、何でもないことでしょう。そう云やあ実は、私でさえ変な夢を見たことがあるくらいですから。」
「ほう……してみますと何か、やはりその、古井戸のことで……。」
「ええ、馬鹿げた夢です。」
そこで彼は、房子や老人に安心させるつもりで、夢の話をごくあっさりとしてきかした。友人の昔話なんかは勿論語らなかった。
房子は始終黙っていたが、老人は次第に膝をのり出して、首を傾げ初めた。そして彼が話し終ってから、暫くして結論めいた調子で云った。
「なるほど、世の中には理外の理ということもありますからな、何とか一つ考えてみませんければ……。」
「いえ、考えて気にするから夢もみるんです。気にさえしなけりゃ、古井戸の跡なんか、どこにだってあることですし……。」
「云ってみればまあそんなものですが、奥さんも御心配でしょうし、なるべくその……世間にぱっとしない方がお互の為ですからな。」
話の調子が、初めとはまるで反対になっていた。その上、房子は始終下を向いて、時々ちらと彼の方へ目配せをした。彼は腑に落ちかねて、二階へ退いていった。
階段を上ろうとすると、茶の間の片隅に、光子がぼんやり坐っていた。彼はそれを二階へ連れて上った。
「今聞いたんですが、何か、古井戸の夢をみるんですか。」
光子は彼の顔をじっと眺めて黙っていた。
「なぜ私に隠していたんです。え、どんな夢をみるんです。云ってごらん。え、どんな夢。」
光子は頭を振った。
「ねえ、黙ってては分らないから、本当のことを云ってごらんなさい。……え、どうしたの。」
光子は慴えたような顔をして、低い声で云った。
「夢なんか見ないの。」
「え、見ない。だって、お母さんは、光子さんが夢でうなされるって……。」
光子は一寸、呆けたような眼付を空に据えたが、いきなり彼の肩に飛びついてきて、囁くような調子で云い初めた。
「夢なんかみないのよ。でもね、お父さんが、恐い夢をみると云わなけりゃいけないって……。嫌だと云うと、ひどく叱られたの。それであたし、一生懸命に云ってやったわ。恐い夢をみて、ちっとも眠られないって。するとあの爺さんが、じっとあたしの顔を見たの。あたし喫驚して、いろいろ恐い夢の話を、一生懸命に、教った通り話したの。恐い夢の話を聞いて、その通りに思いこまなけりゃいけないって、そうお父さんに云われたから、あたし、夢にみたんだ、夢にみたんだって、しょっちゅう考えてたのよ。すると、何だか、本当にみたような気もするの。あたし恐いわ。」