それでも「慷慨悲憤」はなお、お喜代の口から白状させようとする。彼は何かしら、「刺繍」に――絹ハンケチを買ってやった者に、反感を懐いてるらしい。その晩「刺繍」が一人室に残って手紙を書いてることからきたものらしい。
「知らないわ。」
お喜代はぶっきら棒にそう云って、わきを向いてしまう。
「それみろ、」と「白額」が云う、「公爵令嬢の御機嫌を損ねたじゃないか。」
「いやこれは失礼しました。」と「慷慨悲憤」はとぼけた態度に出る。私はただ、御令嬢のキスの価何程なりやと、そういう疑問を起しましたものですから。」
「何だって、」と他の一人が乗り出してくる、「キスの価が何程なりや……。」
「そうさ、」とまた急に調子が変る、「例えば、刺繍絹ハンケチ一個に対して、何回のキスを支払うか、という問題さ。」
「そいつは面白い。是非解決すべき問題だね。」
お喜代はつんと澄しこんでいる。たるんだ頬の肉附が緊張すると、妙になま白い彫刻的な横顔にみえてくる。
「勝手にするがいいわ。あたしはキスを切り売りなんかしませんからね。好きな人にはただで許してやるわ。だけど、あなた方なんかには御免だわ。」
「こいつはお手酷しいね。まあそう云わないで、どうだい僕に一つ。」
「僕にも一つ。」
「俺にも一つ。」
「はははは。」
反応がなくて、手持無沙汰になって、出すぎた冗談が自分に戻ってきて、彼等は思い出したように杯を取り上げる。
「おい、お酌くらいはいいだろう。」
「はーい。」
ばかに大きな声を出して、お喜代は顔の筋肉一つ崩さないで銚子を取り上げる。
「君がそうして怒った顔は、また別な趣きがあるね。」
「まあー、お止しなさいよ。」
打つ真似をして、とうとう笑い出してしまう。それにつけこんで四方から、好奇な眼がぬうっと伸び出す。押しあいへしあい、前へ前へと出ようとしてる気色である。
「止せ、下らないことで一人の女をからかうのは。」
胸の鬱積が高まってきて、和田弁太郎は思わずわりこんでゆく。皆その方を振返る。で彼はぎくりとするのを、むりに踏みこたえる。
「キスくらいが何だい、下らない。」
一同の間にちらちらと目配せが行き渡る。
「ほう、和田にしちゃあ驚いたな。キスくらいが何だい、下らない……か。そこが、プラトニックの、その……。」
「いいさ、ねえ、」と一人がお喜代に言葉を向ける、「キスくらいが何だい、下らない……。」
「ええそうよ。」
これはまたきっぱりとしている。余りにきっぱりとしているので、誰も一寸口を出さない。
煙草の煙と酔っ払った人いきれとで、もうっとした春の夜である。しいんとなったとたんだけが底寒くて、後はむしむしとする。
「そうさ。」
プラトニックに対して時置いて応えたのが、お喜代に応えた形になって、和田弁太郎は一寸ためらう。
「ねえ。」
言葉の受け答えが、そのまま咄嗟の気持になってゆく。
「うむ。僕と君と、ここで皆に証明してやろう。」
つかつかと歩み寄ると、彼女はじっと身動きもしない。その肩を捉えて、唇を頬に持ってゆく。それから我を忘れて、唇の上に……。
一同は気を呑まれて、息をつめている。和田弁太郎も茫然とつっ立ってしまう。お喜代が一人、くくくくと忍び笑いをする。
瞬間にぷっつり息が切れて、わあっとしたどよめきになる。和田弁太郎は緊張した顔付で、そのままカフェーを飛び出していった。
小説家は一寸話を切って、どうだろう、という工合に三度批評家の顔を見ました。
「それは面白い。」と批評家は云いました。
「それでいいじゃないか。」
ところが、それが何だか小説家の気に入らないようでした。
「然し、彼は彼女に接吻した……それだけじゃあ、どうかな。」
「では、その後に、一寸何かつけ加えたらいいだろう。」
「それを僕は考えてるんだ。彼はひどく幽鬱になった……とか、彼ははっと晴々とした気持になった……とか、何かそんな風なことをね……。」
「うむ……然し幽鬱になったというのはどうも旧時代的だし、はっと晴々とした気持になった、というのはどうも余りに新時代的で、何だか不自然な作者の感想みたいに思われやしないかね。」
「だから僕は困っているんだ。彼女に接吻した、だけじゃあどうも納まりがつかない。」
「だが、その、実際の話はどうなんだ。実際のその男の話は。」
「それがね、むつかしいんだ。彼女に接吻した、それから変な気になって、郷里へ帰ってゆく。すると、お梅はもういない。母がうすうす事情を悟って、お梅には暇を出してしまったのだ。彼はその母の心にひどく感激して、すぐに東京へ舞い戻って、寄宿舎の仲間から何と云われようが平気で、熱心に勉強し出した、とそういう話なんだ。ところが、接吻以後は、どうも僕にはついてゆけない。むりについてゆこうとすると、通俗になりそうな気がするんだ。」
「然し、通俗になるもならないも、材料の関係じゃなくて、取扱方だけに依るのじゃないか。」
「それはそうだが、どうもはっきりついてゆけないんだ。」
「それじゃあ仕方がない。彼は彼女に接吻した、それでぷつりと切っちまうんだね。……然し、やはり変かな。」
「うむ、どうも変でね。」
「変と云やあ変だね。」
そこで二人は口を噤んでしまいました。そして暫く互に顔を見合せながら、深く考えこみました。そのうちに、ふと白々しい気持になってきました。小説家の方も批評家の方も、自分達が如何につまらないことばかりを考えあぐんでるかということが、胸の底にぼんやり映ってきたのです。
そして二人共、いやあなちぐはぐな、おまけに呆けた気持になって、一寸どうしてよいか分らないで、茫然としてしまいました。
卓子の上には、もう酒の燗も冷えきっていました。そして食い残しの豆が転っていました。