二
青空が広く、葉は落ち尽くし、鈴懸が木に褐色の実を乾かした。冬。凩が吹いて、人が殺された。泥棒の噂や火事が起こった。短い日に戸をたてる信子は舞いこむ木の葉にも慴えるのだった。
ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。
行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。
「大家さんが交番へ行ってくださったら、俺の管轄内に事故のあったことがないって。いつでもそんなことを言って、巡回しないらしいのよ」
大家の主婦に留守を頼んで信子も市中を歩いた。
三
ある日、空は早春を告げ知らせるような大雪を降らした。
朝、寝床のなかで行一は雪解の滴がトタン屋根を忙しくたたくのを聞いた。
窓の戸を繰ると、あらたかな日の光が部屋一杯に射し込んだ。まぶしい世界だ。厚く雪を被った百姓家の茅屋根からは蒸気が濛々とあがっていた。生まれたばかりの仔雲! 深い青空に鮮かに白く、それは美しい運動を起こしていた。彼はそれを見ていた。
「どっこいしょ、どっこいしょ」
お早うを言いにあがって来た信子は
「まあ、温かね」と言いながら、蒲団を手摺りにかけた。と、それはすぐ日向の匂いをたてはじめるのであった。
「ホーホケキョ」
「あ、鶯かしら」
雀が二羽檜葉を揺すって、転がるように青木の蔭へかくれた。
「ホーホケキョ」
口笛だ。小鳥を飼っている近くの散髪屋の小僧だと思う。行一はそれに軽い好意を感じた。
「まあほんとに口笛だわ。憎らしいのね」
朝夕朗々とした声で祈祷をあげる、そして原っぱへ出ては号令と共に体操をする、御嶽教会の老人が大きな雪達磨を作った。傍に立札が立ててある。
「御嶽教会×××作之」と。
茅屋根の雪は鹿子斑になった。立ちのぼる蒸気は毎日弱ってゆく。
月がいいのである晩行一は戸外を歩いた。地形がいい工合に傾斜を作っている原っぱで、スキー装束をした男が二人、月光を浴びながらかわるがわる滑走しては跳躍した。
昼間、子供達が板を尻に当てて棒で揖をとりながら、行列して滑る有様を信子が話していたが、その切り通し坂はその傾斜の地続きになっていた。そこは滑石を塗ったように気味悪く光っていた。
バサバサと凍った雪を踏んで、月光のなかを、彼は美しい想念に涵りながら歩いた。その晩行一は細君にロシアの短篇作家の書いた話をしてやった。――
「乗せてあげよう」
少年が少女を橇に誘う。二人は汗を出して長い傾斜を牽いてあがった。そこから滑り降りるのだ。――橇はだんだん速力を増す。首巻がハタハタはためきはじめる。風がビュビュと耳を過ぎる。
「ぼくはおまえを愛している」
ふと少女はそんな囁きを風のなかに聞いた。胸がドキドキした。しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。
「どうだったい」
晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。
「もう一度」
少女は確かめたいばかりに、また汗を流して傾斜をのぼる。――首巻がはためき出した。ビュビュ、風が唸って過ぎた。胸がドキドキする。
「ぼくはおまえを愛している」
少女は溜息をついた。
「どうだったい」
「もう一度! もう一度よ」と少女は悲しい声を出した。今度こそ。今度こそ。
しかし何度試みても同じことだった。泣きそうになって少女は別れた。そして永遠に。
――二人は離ればなれの町に住むようになり、離ればなれに結婚した。――年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった。――
それは行一が文学をやっている友人から聞いた話だった。
「まあいいわね」
「間違ってるかも知れないぜ」
大変なことが起こった。ある日信子は例の切り通しの坂で顛倒した。心弱さから彼女はそれを夫に秘していた。産婆の診察日に彼女は顫えた。しかし胎児には異状はなかったらしかった。そのあとで信子は夫に事のありようを話した。行一はまだ妻の知らなかったような怒り方をした。
「どんなに叱られてもいいわ」と言って信子は泣いた。
しかし安心は続かなかった。信子はしばらくして寝ついた。彼女の母が呼ばれた。医者は腎臓の故障だと診て帰った。
行一は不眠症になった。それが研究所での実験の一頓挫と同時に来た。まだ若く研究に劫の経ない行一は、その性質にも似ず、首尾不首尾の波に支配されるのだ。夜、寝つけない頭のなかで、信子がきっと取返しがつかなくなる思いに苦しんだ。それに屈服する。それが行一にはもう取返しのつかぬことに思えた。
「バッタバッタバッタ」鼓翼の風を感じる。「コケコッコウ」
遠くに競争者が現われる。こちらはいかにも疲れている。あちらの方がピッチが出ている。
「……」とうとう止してしまった。
「コケコッコウ」
一声――二声――三声――もう鳴かない。ゴールへ入ったんだ。行一はいつか競漕に結びつけてそれを聞くのに慣れてしまった。