ドイツだとこれほど簡単に数字的に始末の出来る事が、我が駒込辺ではそう簡単でないようである。
どちらがいいか悪いか、それは分らない。ある解釈に従えば、私の偶然に関係した店の主人の仕打ちうや、それに対する私のした事や考えた事なんかは、すべてがただ小さな愚かな、時代おくれの「虚栄心」の変種かもしれない。
しかしともかくも私はちょっと意外な事に出逢ったような気がしてならなかった。而してこういったような商人がそこらに居るという事が何だかちょっと愉快なことのようにさえ思われたのである。
宅へ帰って昼飯を食いながら、今日のアドヴェンチュアーを家人に話したが、誰も一向何とも云ってくれなかった。
庭に下りて咲きおくれた金蓮花とコスモスを摘んだ。それをさっき買った来た白釉の瓶に投げ込んで眺めているといい気持になった。これを眺めているうちにも、また展覧会の童女の像を思い出した。あれは実に美しい。何とも云われないしみじみと美しい絵である。あれに比べると外の多くの騒がしい絵は、云わば腹のへっているのに無闇に大きな声を出しているような気のするものである。真に美しいものは大人しく黙っている。しかしそれはいつまでも見た人の心に美しい永遠の響を留める。そしてその余韻は、その人の生活をいくぶんでも浄化するだけの力をもっている。こういう美しいものを見たときと見なかった時とで、その後に来る吾人の経験には何らのちがった反響がない訳にはゆかない。
展覧会で童女像を見た事と壷のアドヴェンチュアーとは一見何の関係もない事のようである。しかしこれを経験した私にとっては、どうしてもこれを二つの別々の経験に切り離して考える事が困難に思われる。切り離すと、もうそれは自分の活きた経験でなくなって、まるで影の薄い抽象的な「誰でも」の知識になってしまう。
吾々は学問というものの方法に馴れ過ぎて、あまりに何でも切り離し過ぎるために、あらゆる体験の中に含まれた一番大事なものをいつでも見失っている。肉は肉、骨は骨に切り離されて、骨と肉の間に潜む滋味はもう味わわれなくなる。これはあまりに勿体ない事である。
(大正十年十二月『明星』)