北村君は明治元年に小田原で生れた人だ。阿父さんは小田原の士族であった。まだ小さな時分に、両親は北村君を祖父母の手に託して置いて、東京に出た。北村君は十一の年までは小田原にいて、非常に厳格な祖父の教育の下に、成長した。祖母という人は、温順な人ではあったが、実の祖母では無くて、継祖母であった。北村君自身の言葉を借りて云えば、不覊磊落な性質は父から受け、甚だしい神経質と、強い功名心とは母から受けた。斯ういう気風は少年の時からあって、それが非常にやかましい祖父の下に育てられ、祖母は又自分に対する愛情が薄かったという風で、後に成って気欝病を発した一番の大本は其処から来たと自白して居る。明治十四年に東京へ移って、そして途中から数寄屋橋の泰明小学校へ這入った。透谷という号は、この数寄屋橋のスキヤから来たのである。私も小学校の課程は、北村君と同じ泰明小学校で修めた者だが、北村君よりはその弟の丸山古香君の方を、その時代にはよく覚えている。北村君は方々の私立学校を経て、今の早稲田大学が専門学校と云った時代の、政治科にいた事もあったと聞いた。当時の青年はこう一体に、何れも政治思想を懐くというような時で、北村君もその風潮に激せられて、先ず政治家になろうと決したのだが、その後一時非常に宗教に熱した時代もあった。北村君のアンビシャスであった事は、自ら病気であると云ったほど、激しい性質のものらしかった。そういう性質はずっと後になっても、眉宇の間に現われていて、或る人々から誤解されたり、余り好かれなかったりしたというのは、そんな点の現われた所であったろうと思う。まだ二十位の青年の時代に或る時は東洋の救世主を以て任ずるような空想な日を送って、後になって、余り自分の空想が甚だしかった事と、その後に起る失望、落胆の激しい事に驚いた、と書いたものなぞもある。或る時は又一個の大哲学家となって、欧洲の学者を凹ませようと考えた事もあって、その考えは一年の間も続いて、一分時間も脳中を去らなかった。こういう妄想を、而も斯ういう長い年月の間、頭脳の裏に入れて置くとは、何という狂気染みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を自覚して居て、それに打勝とう打勝とうと努めた。北村君の天才は恐るべき生の不調和から閃き発して来た。で、種々な空想に失望したり、落胆したりして、それから空しい功名心も破れて――北村君自身の言葉で言えば「功名心の梯子から落ちて」――そうして急激な勢で文学の方へ出て来るようになったのである。北村君は石坂昌孝氏の娘に方る、みな子さんを娶って、二十五歳(?)の時には早や愛児のふさ子さんが生れて居た。(斯の早婚は種々な意味で北村君の一生に深い影響を及ぼした。)北村君は思い詰めているような人ではあったが、一方には又磊落な、飄逸な処があって、皮肉も云えば、冗談も云って、友達を笑わすような、面白い処もあった。前に出版した透谷集の方には写真を出し、後に出した透谷全集には弟の丸山君の書いた肖像画を出したのであるが、北村君をよく現わすようなものが、残っていないのは残念である。北村君は大変声の涼しいような人で、私は北村君の事を思い出す度に、種々な書いたものを読んで聞かせたり、その時々に話したりした声が、今だに耳についているような気がする。晩年には服装なぞも余り構わなかったし、身体は何方かと云えば痩せぎすな、少し肩の怒った人で、髪なぞは長くしていた。北村君の容貌の中で一番忘れられないのは、そのさもパッションに燃えているような、そして又考え深い眼であった。
明治年代に記憶すべき、大きな出来事の一つは、士族の階級の滅亡である。その階級が有てる凡てのものの滅びて行ったことである。その士族の子孫の中から北村君のような物を考える人が生れて来たということは私には偶然では無いように思われる。猶、新時代の先駆者たりし北村君に就いては、話したいと思うことは多くあるが、ここにはその短い生涯の一瞥にとどめておく。
(大正二年四月)