ちょうど、ここに一羽の白鳥があって、北の海で自分の子供をなくして、心を傷めて、南の方へ帰る途中でありました。
白鳥は黙って、山を越え、森を越え、河を越えて、青い、青い海を遠く後にして、南の方をさして旅をしていました。白鳥は疲れると流れの辺に降り、翼を休めて、また旅に上りました。かわいい子供をなくして、白鳥は、歌う気にもなれなかったのです。ただ、黙って暗い夜を、星の下を駆けていました。
白鳥は、ふと、悲しい笛の音をききました。それは、普通の人の吹く笛の音色とは思われない。なんでも胸になやみのあるものが、はじめてこんな笛の音色を出し得ることを白鳥は知りました。白鳥は、子供をなくして、しみじみと悲しみを味わっていましたから、その笛の音色をくみとることができたのです。
白鳥は、その目に見えない細い糸の、切れては、また、つづくような、悲しい音色がどこから聞こえてくるかと翼をゆるやかに刻んで、しばらくは夜の空をまわっていましたが、やがて、広場から起こることを知りました。白鳥は、注意深くその広場に降りたのであります。そして、そこに、一人の少年が草の上にすわって、笛を吹いているのを見ました。
白鳥は、少年に近づきました。
「どうして、こんなところに、たった一人で笛を吹いているのですか。」とたずねました。
盲目の少年は、やさしい声で、だれかこうしんせつに聞いてくれましたので、少年は、姉が自分をここに置いて、どこへかいってしまったことをありのままに告げました。
「ほんとうに、かわいそうに。わたしが、姉さんにかわってめんどうを見てあげます。わたしは、子供をなくした白鳥です。これから、あちらの遠い国へ帰ろうと思っています。二人は、南の国へいって、波の穏やかな岸辺で笛を吹いたり、踊ったりして送りましょう。わたしは、いまあなたをわたしとおなじ白い鳥の姿にしてあげます。海を越え、山を越えてゆくのですから……。」と、白鳥はいいました。
ついに、盲目の少年は、白い鳥となりました。夜のうちに、二羽の白鳥は、このさびしい、暗い広場から飛びたって、ほんのりと明るく、空を染めた港を見下ろしながら、その上を過ぎて、遠くいずこへとなく、消え去ってしまったのであります。後には、空に星が輝いていました。大地は黒く湿って、草木は音なく眠っていました。
姉は、それから程経て、大尽の屋敷からもどってきました。思ったより、たいへんに時間がたったので、弟はどうしたろうと心配してきたのであります。けれど、そこには、弟の姿が見えませんでした。どこを探ねても見えませんでした。星の光が、かすかに地の上を照らしています。そこには、いままで目に入らなかった月見草が、かわいらしい花を開いていました。そして、これもいままで見なかった、姉の青い着物のえりに、宝石が星の光に射られて輝いていました。
明くる日から、姉は、狂人のようになって、すはだしで港の町々を歩いて、弟を探しました。
月の光が、しっとりと絹糸のように、空の下の港の町々の屋根を照らしています。そこの、果物屋には、店頭に、遠くの島から船に積んで送られてきた、果物がならんでいました。それらの果物の上にも、月の光が落ちるときに、果物は、はかない香りをたてていました。また、酒場では、いろいろの人々が集まって、唄をうたったり、酒を飲んだりして笑っていました。その店頭のガラス戸にも、月の光はさしています。また、港にとまっている船の旗の揺れている、ほばしらの上にも月の光は当たっています。波は、昔からの、物憂い調子で、浜に寄せては返していました。
姉は、あてもなくそれらの景色をながめ、悲しみに沈みながら、弟をさがしていました。けれど、弟は、どこへいったのかわかりませんでした。
一日、この港に外国から一そうの船が入ってきました。やがて、いろいろなふうをした人々が、港の陸へうれしそうに上がってきました。なんでも、南の方からきたので、人々の姿は軽やかに、顔は日に焼けて、手には、つるで編んだかごをぶらさげていました。それらの群れの中に、見なれない、小人のように脊の低い、黒んぼが一人混じっていました。
黒んぼは、日当たりの途を歩いて、あたりを物珍しそうに、きょろきょろとながめながらやってきますと、ふと、町角のところで、うす青い着物をきた娘に出あいました。娘は黒んぼを、物珍しそうに振り返りますと、黒んぼは立ち止まって、不思議そうに、娘の顔を見つめていましたが、やがて近寄ってまいりました。
「あなたは、南の島で、唄をうたっていた娘さんではありませんか。いつ、こちらにこられたのですか。私は、あちらの島をたつ前の日に、あなたを、島で見ましたはずですが。」と、黒んぼはいいました。
姉は、不意に問いかけられたのでびっくりして、
「いえ、わたしは南の島にいたことはありません。それはきっと人違です。」と答えました。
「いや、人違いでない。まったくあなたでした。水色の着物をきて、盲目の十ばかりになる、男の子が吹く笛の調子に合わせて、唄をうたって踊っていたのは、たしかにあなたです。」と、黒んぼは疑い深い目つきで、娘をながめながらいいました。
姉は、これを聞くと、さらにびっくりしました。
「十ばかりの男の子が笛を吹いている? そして、その子供は盲目なんですか?」
「それは、島でたいした評判でした。娘さんが美しいので、島の王さまが、ある日金の輿を持って迎えにこられたけれど、娘は弟がかわいそうだといって、お断りしてゆきませんでした。その島には、白鳥がたくさんすんでいますが、二人が笛を吹いたり、踊ったりしている海岸には、ことにたくさんな白鳥がいて、夕暮れ方の空に舞っているときは、それはみごとであります。」と、黒んぼは答えて、それなら、やはり、この娘は人違いかというような顔つきをしていました。
「ああ、わたしは、どうしたらいいだろう。」と、姉は、自分の長い髪を両手でもんで悲しみました。
「もう一人、この世の中には、自分というものがあって、その自分は、わたしよりも、もっとしんせつな、もっと善良な自分なのであろう。その自分が、弟を連れていってしまったのだ。」と、姉は胸が張り裂けそうになって、後悔しました。
「その島というのは、どこなんですか。わたしは、どうかしていってみたい。」と、姉はいいました。
黒んぼは、このとき、港の方を指さしながら、
「ずっと、幾千里となく遠いところに、銀色の海があります。それを渡って陸に上がり、雪の白く光った、高い山々が重なっている、その山を越えてゆくので、それは、容易にゆけるところでない。」と答えました。
このとき、夏の日は暮れかかって、海の上が彩られ、空は、昨日のように真っ赤に燃えて見られました。