それもごく時たまのことですが、私は彼を訪問するごとに、彼の病気がだんだん募って行って、今ではむしろ狂気に近い状態になっているのを目撃して、ひそかに戦慄を禁じ得ないのでした。彼のこの病癖にもってきて、更らにいけなかったことは、ある年の流行感冒のために、不幸にも彼の両親が、揃ってなくなってしまったものですから、彼は今は誰に遠慮の必要もなく、その上莫大な財産を受けついで、思うがままに、彼の妙な実験を行なうことができるようになったのと、それに今ひとつは、彼も二十歳を越して、女というものに興味をいだきはじめ、そんな変てこな嗜好を持つほどの彼ですから、情欲の方もひどく変態的で、それが持ち前のレンズ狂と結びついて、双方がいっそう勢いを増す形になってきたことでした。そしてお話というのは、その結果、ついに恐ろしい破局を招くことになった或る出来事なのですが、それを申し上げる前に、彼の病勢が、どのようにひどくなっていたかということを、二つ三つ、実例によってお話ししておきたいと思うのです。
彼の家は山の手の或る高台にあって、今いう実験室は、そこの広々とした庭園の片隅の、街々の甍を眼下に見下す位置に建てられたのですが、そこで彼が最初はじめたのは、実験室の屋根を天文台のような形にこしらえて、そこに可なりの天体観測鏡を据えつけ、星の世界に耽溺することでした。その時分には、彼は独学で、一と通り天文学の知識を備えていたわけなのです。が、そのようなありふれた道楽で満足する彼ではありません。その一方では、度の強い望遠鏡を窓際に置いて、それをさまざまの角度にしては、目の下に見える人家の、あけはなった室内を盗み見るという、罪の深い、秘密な楽しみを味わっているのでありました。
それがたとえ板塀の中であったり、他の家の裏側に向かい合っていたりして、当人たちはどこからも見えぬつもりで、まさかそんな遠くの山の上から望遠鏡で覗かれていようとは気づくはずもなく、あらゆる秘密な行ないを、したい三昧にふるまっている、それが彼には、まるで目の前の出来事のように、あからさまに眺められるのです。
「こればかりは、止せないよ」
彼はそう言い言いしては、その窓際の望遠鏡を覗くことを、こよなき楽しみにしていましたが、考えてみれば、ずいぶん面白いいたずらに違いありません。私も時には覗かしてもらうこともありましたけれど、偶然妙なものを、すぐ目の前に発見したりして、いっそ顔の赤らむようなこともないではありませんでした。
そのほか、たとえば、サブマリン・テレスコープといいますか、潜航艇の中から海上を眺める、あの装置をこしらえて、彼の部屋に居ながら、雇人たちの、殊に若い小間使いなどの私室を、少しも相手に悟られることなく覗いてみたり、そうかと思うと、虫目がねや、顕微鏡によって、微生物の生活を観察したり、それについて奇抜なのは、彼が蚤の類を飼育していたことで、それを虫目がねや度の弱い顕微鏡の下で、這わせてみたり、自分の血を吸うところだとか、虫同士をひとつにして同性であれば喧嘩をしたり、異性であれば仲良くしたりする有様を眺めたり、中にも気味のわるいのは、私は一度それを覗かされてからというものは、今までなんとも思っていなかったあの虫が、妙に恐ろしくなったほどなのですが、蚤を半殺しにしておいて、そのもがき苦しむ有様を、非常に大きく拡大して見ることでした。五十倍の顕微鏡でしたが、覗いた感じでは、一匹の蚤が眼界一杯にひろがって、口から、足の爪、からだにはえている小さな一本の毛までがハッキリとわかって、妙な比喩ですが、まるで猪のように恐ろしい大きさに見えるのです。それがドス黒い血の海の中で(僅か一滴の血潮がそんなに見えるのです)背中半分をぺちゃんこにつぶされて、手足で空をつかんで、くちばしをできるだけ伸ばし、断末魔の物凄い形相をしています。何かその口から恐ろしい悲鳴が聞こえているようにすら感じられるのであります。
そうしたこまごましたことを一々申し上げていては際限がありませんから、たいていは省くことにしますが、実験室建築当初の、かような道楽は月日と共に深まって行って、ある時はまた、こんなこともあったのです。ある日のこと、彼を訪ねて、なにげなく実験室の扉をひらきますと、なぜかブラインドをおろして部屋の中が薄暗くなっていましたが、その正面の壁一杯に、そうですね一間四方もあったでしょうか、何かモヤモヤとうごめいているものがあるのです。気のせいかと思って、眼をこすってみるのですが、やっぱりなんだか動いている。私は戸口にたたずんだまま、息を呑んでその怪物を見つめたものです。すると、見ているに従って、霧みたいなものがだんだんハッキリしてきて、針を植えたような黒い草むら、その下にギョロギョロ光っている盥ほどの眼、茶色がかった虹彩から、白目の中の血管の川までも、ちょうどソフトフォーカスの写真のように、ぼんやりしていながら、妙にハッキリと見えるのです。それから棕櫚のような鼻毛の光る、ほら穴みたいな鼻の穴、そのままの大きさで座蒲団を二枚かさねたかと見える、いやにまっ赤な唇、そのあいだからギラギラと白い瓦のような白歯が覗いている。つまり部屋一杯の人の顔、それが生きてうごめいているのです。映画なぞでないことは、その動きの静かなのと、生物そのままの色艶とで明瞭です。無気味さよりも、恐ろしさよりも、私は自分が気でも違ったのではあるまいかと、思わず驚きの叫び声を上げたほどです。すると、
「驚いたかい、僕だよ、僕だよ」
と別の方角から彼の声がして、ハッと私を飛び上がらせたことには、その声の通りに、壁の怪物の唇と舌が動いて、盥のような眼が、ニヤリと笑ったのです。
「ハハハハハ……どうだいこの趣向は」
突然部屋が明かるくなって、一方の暗室から彼の姿が現われました。それと同時に壁の怪物が消え去ったのは申すまでもありません。皆さんは大かた想像なすったでしょうが、これはつまり実物幻灯……鏡とレンズと強烈な光の作用によって、実物そのままを幻灯に写す、子供のおもちゃにもありますね、あれを彼独得の工夫によって、異常に大きくする装置を作ったのです。そして、そこへ彼自身の顔を映したのです。聞いてみればなんでもないことですが、可なり驚かせるものですよ。まあ、こういったことが彼の趣味なんですね。
似たようなので、いっそう不思議に思われたのは、今度は別段部屋が薄暗いわけでもなく、彼の顔も見えていて、そこへ変てこな、ゴチャゴチャとした鏡を立て並べた器械を置きますと、彼の眼なら眼だけが、これもまた盥ほどの大きさで、ポッカリと、私の目の前の空間に浮き出す仕掛けなのです。突然そいつをやられた時には、悪夢でも見ているようで身がすくんで、殆んど生きた空もありませんでした。ですが、種を割ってみれば、これがやっぱり、先ほどお話しした魔法の紙幣と同じことで、ただたくさん凹面鏡を使って、像を拡大したものにすぎないのでした。でも、理窟の上ではできるものとわかっていても、ずいぶん費用と時間のかかることでもあり、そんなにばかばかしいまねをやってみた人もありませんので、いわば彼の発明といってもよく、つづけざまにそのようなものを見せられると、なにかこう、彼が恐ろしい魔物のようにさえ思われてくるのでありました。
そんなことがあってから、二、三カ月もたった時分でしたが、彼は今度は何を思ったのか、実験室を小さく区ぎって、上下左右を鏡の一枚板で張りつめた、俗にいう鏡の部屋を作りました。ドアも何もすっかり鏡なのです。彼はその中へ一本のロウソクを持って、たった一人で長いあいだはいっているというのです。一体なんのためにそんなまねをするのか誰にもわかりません。が、その中で彼が見るであろう光景は大体想像することができます。六方を鏡で張りつめた部屋のまん中に立てば、そこには彼のからだのあらゆる部分が、鏡と鏡が反射し合うために、無限の像となって映るものに違いありません。彼の上下左右に、彼と同じ数限りもない人間が、ウジャウジャと殺到する感じに違いありません。考えただけでもゾッとします。私は子供の時分に八幡の藪知らずの見世物で、型ばかりの代物ではありましたが、鏡の部屋を経験したことがあるのです。その不完全極まるものでさえ、私にはどのように恐ろしく感じられたことでしょう。それを知っているものですから、一度彼から鏡の部屋へはいれと勧められた時にも、私は固く拒んで、はいろうとはしませんでした。
そのうちに、鏡の部屋へはいるのは、彼一人だけではないことがわかってきました。その彼のほかの人間というのは、彼のお気に入りの小間使いでもあり、同時に彼の恋人でもあったところの、当時十八歳の美しい娘でした。彼は口癖のように、
「あの子のたったひとつの取柄は、からだじゅうに数限りもなく、非常に深い濃やかな陰影があることだ。色艶も悪くはないし、肌も濃やかだし、肉付きも海獣のように弾力に富んではいるが、そのどれにもまして、あの女の美しさは、陰影の深さにある」
といっていた。その娘と一緒に、彼の鏡の国に遊ぶのです。しめきった実験室の中の、それをまた区ぎった鏡の部屋の中ですから、外部からうかがうべくもありませんが、時としては一時間以上も、彼らはそこにとじこもっているという噂を聞きました。むろん彼が一人きりの場合もたびたびあるのですが、ある時などは、鏡の部屋へはいったまま、あまりにも長いあいだ物音ひとつしないので、召使いが心配のあまりドアを叩いたといいます。すると、いきなりドアがひらいて、すっぱだかの彼一人が出てきて、ひとことも物をいわないで、そのままプイと母屋の方へ行ってしまったというような、妙な話もあるのでした。