七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承けて其御子允炆皇太孫の位に即かせたもう。継紹の運まさに是の如くなるべきが上に、下は四海の心を繋くるところなり。上は一人の命を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲となりたまえる上は、齢猶弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或は功あり或は徳ありと雖も、遠からず俯首して命を奉ずべきなれば、理に於ては当に之を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟み、大封の勢に藉り、且は叔父の尊きを以て、不遜の事の多かりければ、皇太孫は如何ばかり心苦しく厭わしく思いしみたりけむ。一日東角門に坐して、侍読の太常卿黄子澄というものに、諸王驕慢の状を告げ、諸叔父各大封重兵を擁し、叔父の尊きを負みて傲然として予に臨む、行末の事も如何あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰いたもう。子澄名は湜、分宜の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖も、世故に練達することは未だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰か能く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心安く思召せ、と七国の古を引きて対うれば、太孫は子澄が答を、げに道理なりと信じたまいぬ。太孫猶齢若く、子澄未だ世に老いず、片時の談、七国の論、何ぞ図らん他日山崩れ海湧くの大事を生ぜんとは。
太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同閏五月西宮に崩ず。其遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度と無く畏るべき危険の境を冒して、無産無官又無家、何等の恃むべきをも有たぬ孤独の身を振い、終に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮い竭して民を済い、而して礼を尚び学を重んじ、百忙の中、手に書を輟めず、孔子の教を篤信し、子は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此に依拠し、又蚤歳にして仏理に通じ、内典を知るも、梁の武帝の如く淫溺せず、又老子を愛し、恬静を喜び、自から道徳経註二巻を撰し、解縉をして、上疏の中に、学の純ならざるを譏らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚せず、嘗て宗濂に謂って、人君能く心を清くし欲を寡くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々皡々として自ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰い、詩文を善くして、文集五十巻、詩集五巻を著せるも、詹同と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出するを尚ぶと為し、又洪武六年九月には、詔して公文に対偶文辞を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵を事とするを遏めたるが如き、まことに通ずること博くして拘えらるゝこと少く、文武を兼ねて有し、智有を併せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝の諡号に負かざる朱元璋、字は国瑞の世を辞して、其身は地に入り、其神は空に帰せんとするに臨みて、言うところ如何。一鳥の微なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可く考う可きもの無からんや。遺詔に曰く、朕皇天の命を受けて、大任に世に膺ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何せん寒微より起りて、古人の博智無く、善を好し悪を悪むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼す、慮るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得、其れ奚んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允炆、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐し、以て吾が民を福せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異にする勿れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川は、其の故に因りて改むる勿れ、天下の臣民は、哭臨する三日にして、皆服を釈き、嫁娶を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨きて、京師に至る母れ。諸の令の中に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
嗚呼、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕の情景、百歳の下、人をして欽仰せしむるに足るものあり。奈何せん寒微より起りて、智浅く徳寡し、といえるは、謙遜の態度を取り、反求の工夫に切に、諱まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕に在り、といえるは、英雄も亦大限の漸く逼るを如何ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚にぞ哀念かこれ有らん、と云える、流石に孔孟仏老の教に於て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真豪傑、生きて長春不老の癡想を懐かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容として逼らず、晏如として惕れず、偉なる哉、偉なる哉。皇太孫允炆、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言や鉄の鋳られたるが如し。衆論の糸の紛るゝを防ぐ。これより前、太孫の儲位に即くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖も、太孫の人となり仁孝聡頴にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚だ欠く。此を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其詩婉美柔弱、豪壮瑰偉の処無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句の属対をなさしめしに、大に旨に称わず、復び以て燕王棣に命ぜられけるに、燕王の語は乃ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌偉にして髭髯美わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖に肖たること多かりしかば、太祖も此を悦び、人も或は意を寄するものありたり。此に於て太祖密に儲位を易えんとするに意有りしが、劉三吾之を阻みたり。三吾は名は如孫、元の遺臣なりしが、博学にして、文を善くしたりければ、洪武十八年召されて出でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡、朱善と与に、世称して三老と為す。人となり慷慨にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与りて定むる所多く、帝の洪範の注成るや、命を承けて序を為り、勅修の書、省躬録、書伝会要、礼制集要等の編撰総裁となり、居然たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節に臨むに至りては、屹として奪う可からず。懿文太子の薨ずるや、身を挺んでゝ、皇孫は世嫡なり、大統を承けたまわんこと、礼也、と云いて、内外の疑懼を定め、太孫を立てゝ儲君となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言無からん、乃ち曰く、若し燕王を立て給わば秦王晋王を何の地に置き給わんと。秦王樉、晋王棡は、皆燕王の兄たり。孫を廃して子を立つるだに、定まりたるを覆すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世豈事無くして已まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其事止みけるなり。是の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏めて、特に厳しく皇太孫允炆宜しく大位に登るべしとは詔を遺されたるなるべし。太祖の治を思うの慮も遠く、皇孫を愛するの情も篤しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨三日にして服を釈き、嫁娶を妨ぐる勿れ、と云える、何ぞ倹素にして仁恕なる。文帝の如くせよとは、金玉を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福あらしめんとなり。諸王は国中に臨きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋し其意諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺孽、辺土の黠豪等、或は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原の勢を成すに至らんことを虞るるに似たり。此も亦愛民憂世の念、おのずから此に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
然りと雖も、太祖の遺詔、考う可きも亦多し。皇太孫允炆、天下心を帰す、宜しく大位に登るべし、と云えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少く勇乏しき、自ら謙譲して諸王の中の材雄に略大なる者に位を遜らんことを欲する者ありしが如きをも猜せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明の世を治むる、纔に三十一年、元の裔猶未だ滅びず、中国に在るもの無しと雖も、漠北に、塞西に、辺南に、元の同種の広大の地域を有して蹯踞するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和に寇するあり。国外の情是の如し。而して域内の事、また英主の世を御せんことを幸とせずんばあらず。仁明孝友は固より尚ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐し、以て吾が民を福せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶、非耶。諸王は国中に臨きて京に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其封国を空しゅうして奸驁の乗ずるところとならんことを虞るというも、諸王の臣、豈一時を托するに足る者無からんや。子の父の葬に趨るは、おのずから是れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔は、果して是れ太祖の言に出づるか。太祖にして此詔を遺すとせば、太祖ひそかに其の斥けて聴かざりし葉居升の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚しければ則ち間に縁りて起たんに、之を防ぐも及ぶ無き也、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼子にして父の葬に会するを得ず、父の意なりと謂うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦疎にして薄きの憾無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中らん、而も実に人情に遠いかな。凡そ施為命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計は中るも、見は徹するも、必らず弊に坐し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高皇后の崩ずるや、奏王晋王燕王等皆国に在り、然れども諸王喪に奔りて京に至り、礼を卒えて還れり。太祖の崩ぜると、其后の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此も亦人を強いて人情に遠きを為さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端は先ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将に淮安に至らんとせるに当りて、斉泰は帝に言し、人をして勑を賚らして国に還らしめぬ。燕王を首として諸王は皆悦ばず。これ尚書斉泰の疎間するなりと謂いぬ。建文帝は位に即きて劈頭第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父なり、尊族なり、封土を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯、皇室の藩屏たるも何かあらん。嗚呼、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑又遺詔にあるか、諸王にあるか、之を知らざる也。又飜って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止むるの語ありしや否や。或は疑う、太祖の人情に通じ、世故に熟せる、まさに是の如きの詔を遺さゞるべし。若し太祖に果して登遐の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就くの時に於て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦発駕奔喪の際に於て、半途にして擁遏せらるゝの不快事に会う無く、各〻其封に於て哭臨して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此に出でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可からず。人の情屈すれば則ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨を懐き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之を知るの明無からん。故に曰く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯むるの事も、世其例に乏しからず、是の如きの事、未だ必ずしも無きを保せず。然れども是れ推測の言のみ。真耶、偽耶、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為か、為にあらざる耶、将又斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏めざる能わざるの勢の存せしか、非耶。建文永楽の間、史に曲筆多し、今新に史徴を得るあるにあらざれば、疑を存せんのみ、確に知る能わざる也。